日記155日目
リリベルの月26日。
雨季に入ってもう1週間。
なんだか徐々に自分が兵士か何かに思えてきた。
雨の中の森の中を走り続けるとか、もうそんな感じの訓練かって思う。
いや、晴れだろうと雨だろうとアイツは相変わらず怖いんだけどさ。
こっちは張り付いてくるカッパで思うように動けないってのに、アイツは物ともせずに走ってくるからマジ怖い。
アイツに「怖い」なんて言ったら色々と負けるから言わないけど、マジでホラー映画並みに怖い。
同じ条件のはずなのに……これが子供と大人の差なの?
しかも大体濡れた地面に滑って転んでるから、服もカッパも毎回ドロドロ。
お姉ちゃんから貰った服は汚したくないから汚れたのが乾いたら着まわしてるけど……そろそろ色々とキツくなってきた。臭いとか。
でもまあ外だし、泥まみれで土臭い方が勝ってるはずだし……いけるよね?
「臭い」
そう珍しく他者が見ても分かる程顔を顰めた男に、今日も今日とて雨除けごと掴まれているサティリナ。
顔と同じ高さまで持ち上げられれば、幾ら雨が降っていて泥まみれだろうとその悪臭は掻き消せないだろう。
「そりゃ服も雨除けも洗ってないからね」
「洗え」
「すぐ泥だらけになるからイヤ」
正確には洗おうにもそのためには侍従たちの間を掻い潜る必要があり、そのための労力を割くぐらいならレーティアとお茶していた方が良いと思ったからである。
「ほら、臭いんなら放してよ。もう負けたし勝手についてくからさ」
「…………」
今日の勝負も結局、斜面を登ろうとしたサティリナが足を滑らせて終了であった。
登る前に踏んでしまった大きな水溜りの所為でブーツの中が濡れたのが原因だ。今度はもう少し気をつけて道を選ばなくては。
最近は体力が付いてきたのか勝負後でも動ける程度にはなった。
これまで一度も男が放してくれたことはなかったが、流石に悪臭を放つ自分を抱えたりしたいとは思わないだろう。
後で『濡れ鼠からドブ鼠に成り下がったか』などと悪態を吐かれそうだ。などと気の重くなるような想像をしていれば、男がサティリナを掴んだまま歩き始めてしまった。
「え、ちょ!? ホントに臭いんだったら放してもいいんだってば!」
「黙れ」
暴れはせずに口だけで抗議してみるが、それもいつものように一蹴されてしまう。
振り続ける雨の中、男がやがて止まったのは太陽宮の庭園にある、大きな噴水の前であった。
まさか――
ようやく男の意図を理解したときには真下は水面になっており、背中にあったはずの感触すぐにがなくなった。重力はサティリナを瞬時に水面に引き寄せ、バシャンという水音と共に遠い過去で何度か味わった感覚が襲ってきた。
そう。前世でプールの飛び込みに失敗したときの、あの鼻の奥が痛くなり耳がゴボゴボとなるあの感覚だ。
「ぶへあっ!?」
幸いにも噴水は深くなく、幼い皇女の胸元程度であった。
すぐに底に手を着いて顔を上げたサティリナは張り付く前髪を掻き揚げながら息を吸った。
「っげほっげほ!」
しかし鼻に入った水が器官に入りかけたのかむせ返った。
一頻り咳き込んだ後、口元を拭いながら恨めしく男を見上げた。
「洗え」
男が冷たく見下ろしてくるが、既にサティリナがそれが基本姿勢なのだと分かっている。
今の男は脅しで言っているのではなく『臭いのならとっとと洗えば良い』という意味でサティリナを噴水の中に落としたのだ。
しかしそれが分かっていても腹が立つことに変わりはない。
「っ~~!!
あのね! 服洗ってもちゃんと乾かさなかったら臭いままなの!
おじさんは洗濯したことないから知らないでしょうけど!」
悪臭の原因は乾燥不良による雑菌の増殖だ。
日照時間の少ない今の時期、それを防ぐために侍従たちが暖炉や竈の近くで衣類を乾かしていることぐらい既に把握済みなのだ。
水に落とされた影響で雨除けも既に意味を成していない。
ただ水を含んで不必要に張り付いてくるようになったフードが邪魔になり、もう濡れているから良いやと乱暴に取り払った。
そしてこれ以上座ったままでいる気もなかったので立ち上がった。
「洗濯ぐらい経験はある」
そう苛立ったように男が言うのと、その手が伸びたのは同時だった。
驚く間もなく男の手がサティリナの雨除けをとめていた紐を緩め、閉じていた前が開かれた。
「とっとと脱げ」
そう言って急にフード部分を引っ張られ、重心が後ろへと下がった。
「え、えええっ!? ちょ!?」
バランスを崩し、しりもちをつく形で再び水の中に座り込んでしまう。
無理矢理脱がされたため腕の関節や肩にも痛みが走る中、気づけば雨除けが見事に脱がされていた。
軽くなった開放感と無理矢理雨除けを取られた苛立ちのままに男を見れば、丁度小さな雨除けが噴水の水の中に落とされたところであった。
バシャバシャと乱暴にだが水の中で振られ、少し上げては再び浸ける事を繰り返す。
そして引き上げた雨具を絞って水を切り、バサバサと振って皺を伸ばしていた。
この後物干し用のロープか何かにかけて乾かせば確かに洗濯は完了しそうだ。
そう呆然と男の手際を見ていたサティリナであったが、はっと我に返り男が自分をじっと見ていることに気づいた。
最初はその手際に関する感想を求めているのかと思ったが、次にはぞわりと悪寒が背を駆けていた。
確かに雨除けもそうだったが、あの時自分は『服も洗っていない』と言わなかっただろうか。そして今男はたぶんだが“洗おう”としている。服を。
「脱げ」
その考えは当たっていた。
男の言葉に反射的にサティリナは自分の胸元を握り締めていた。
「ご、ご遠慮します……!!」
初めて男に対して敬語を使ったのではないだろうか。
しかしそんな言葉一つで男が止まるはずもなく、初の水中戦?が奇しくも始まってしまったのだった。
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アイツの所為で風邪引いた。
頭痛い。もう寝る。