日記117日目
ブローフの月18日。
行きたくない。
でも行かないとクロエとクロエのお姉さんが酷い目に遭うから行く。
今日は魔術だって最初から全開で行ってやるんだから!!
などと意気込んでいたのは三十分ぐらい前だっただろうか。
昨日とは違う木立の中、サティリナは一本の木に凭れかかるように座り込んでしまっていた。
それでも悔しさから見上げていた視界の端に、深々と木に突き刺さった短剣の柄が見える。
迂闊だった。
まさか太陽宮の庭園に入った瞬間からこの男に追われることになるとは……!
最初に会った相手がクロエであったのなら良かったのに。
『来たか』
嘲りを含んだ冷ややかな声に恐怖が蘇り、焦燥に駆られる中少しだけ振り返ってその声の主を確認した。
――なんでそこに!?
そう混乱したサティリナにはしっかりと声の主である男が見えていた。
しかし男がそこにいる理由を確認するよりも本能のようなものが警報をけたたましく鳴らしていた。
逃げなければ! そう思ってその場から駆け出し、再び木立の中を逃げ回った。
昨日と同じく息はすぐに上がったし足だってすぐに痛くなった。けれど負けたくないという意地で走り続け、一本の木の裏手に回り込もうとしたとき、それが飛んできた。
トン! と乾いた音を響かせて突き刺さったのは短剣であり、サティリナの頭上を掠めて飛んできたのだとすぐに判った途端に腰が抜けて――今に至る。
「どうした。早く動け」
そう淡々とサティリナを見下ろしながら命令する男。
その言葉に今すぐにでも言い返したかったが未だ息が上がっており、まともに喋れる状態ではなかった。
ただ睨むことしか出来ず、無言が続く。生暖かい風が二人の間を吹き抜けた。
「……」
「……」
睨み合いが続く中、男が静かに口を開いた。
「……泣け」
その物言いにサティリナは苛立った。
「っ……こ・と・わ・る!」
どうやら少しは持ち直したようだ。
しかしその第一声がこれとは。そう内心で泣きながらサティリナは男を睨み続けていた。
「殺すぞ」
「何かにつけて殺す殺す言うな!!
急に泣けって言われて泣けるワケないでしょ!?」
「それだけ口が回るならもう動けるな。とっとと立て」
「口だけで全部がいけると思うなよ!?
こっちは回復したら勝手に立つからほっといて!」
「煩い鼠だ……」
「アンタが黙れば私も黙るわ!!」
苛立たせているのはそっちだ! そう怒りを込めて指差せば、男の眉がぴくりと動いた。
しかし昨日のように激怒した様子はなく、大きくため息のような息を吐くと再びサティリナを見て――近寄ってきた。
「え、な、何を――」
思わず後ろに下がろうとするが既に木に密着しており、これ以上は動けない。サティリナを男の影が覆い、手が伸ばされた――
***
「……暇だな」
場所は変わって庭園の東屋。
あの後サティリナは男に後ろ襟を掴まれ、まるで猫のようにこの東屋につれて来られた。そしてそこには既にクロエがおり、現れたサティリナと男に大変驚愕していた。
時間もあれから少しだけ進み、既に昼食も終えている。
今日は初めから男も共に食べる予定であったらしく、きちんと一人分多くなっていた。
未だ見ぬクロエ姉の気配りの高さに感激していたのも束の間、初の男との昼食はやはり平穏には終わらなかった。
サティリナが食べようと思っていたものはほとんど目の前で取られて食べられ……
かと思えば急に『食え』と言って様々なものを押し付けられた。
男が何かをする度にサティリナは苛立ち、文句を言う事の繰り返しであった。
そして今もまた男にじっと見られながら呟かれた言葉に、サティリナは顔を顰めた。
今は昼食を食べてそれほど経っていない。走り回ればせっかく胃に入れたものが逆流するのは目に見えていた。
「じゃあ仕事でもすりゃいいじゃん」
何故こんな真昼間から子供を追い掛け回して楽しもうとするのか。暇人か。
体力が有り余っているのならもっと建設的な方向へと向ければ良いだろうが。
絶対に動かないという断固たる決意と共にそう言ってやった。
サティリナの態度は男にとっては少し意外だったのか、微かに男の眉間が震えたのが見えた。
「お前よりは働いている」
それはそうだろう。現在のサティリナは成人にも程遠い子供だ。
子供が働くことなど――貧困であればあるのかもしれないが――普通はあり得ない。精々働くという名の『遊ぶ』事ぐらいだ。
しかし前世がある所為かそう言われると『お前は無能』と言われているも同義に感じ、ぐっと言葉に詰まりかけた。
「っ……わ、私はおじさんが働いてるところ見てないし」
だからお前も同類だ。そう遠まわしに含ませれば、男もそれとなく拾ったらしい。
「「…………」」
互いに少し鋭くなった視線で睨み合うこととなった。
因みにクロエは東屋にはおらず、その近くで鈍ってしまった身体の調整に入っている。
一応上司だろう皇族の前で良いのかとも思われるが、寧ろ男から追い払われるように言いつけられているので問題にはならないようだ。
睨み合うかお茶を飲むしかない今の状況は、それを取ればかなり暇すぎる。
これまでどうやって過ごしていたっけ。と思い返していたサティリナはクロエを見た。
そうだ。いつもならこんなときはクロエを手伝っていたのだ。
今の彼は丁度腕立てをしているし、乗って数でも数えていよう。
そう重心をずらした時だった。
「動くな」
まさかの行動禁止命令である。
「クロエのところに行くだけだし。暇だったら寝てたらいいじゃん」
何故そんな近場までの行動すら制限されなければならないのか。
聞いてやるもんか。と尚も動こうとすれば、勢い良く何かが飛び出してきた。
飛び出したそれはサティリナの行く手を阻むように伸び、サティリナの座る長椅子にドカリと乗っかった。
「うわっ!?」
思わず飛び退いて見れば、それは革で作られたブーツだった。
その伸びてきている方向と合わせればブーツ――ではなく、すらりと伸びた脚の持ち主は明確であった。
「こいつ……!」
一度その脚の持ち主である男を睨み、すぐに反対側から出ようと体を反転させ――
ガキン!!
瞬間、何か固い物同士がぶつかったような音が響き渡り、視界の中を何かが通り過ぎた。
それは真っ直ぐ石造りの長椅子の背に突き刺さり、余韻で小さく震えていた。
「死にたいのか?」
そう冷ややかな声を聞きながら、サティリナは目の前にて震えの収まったそれを凝視していた。
石なのに、こうも綺麗に突き刺さるとは。
それだけ業物なのか、はたまた石材自体が柔らかいものなのか。
いや、そんなことはどうでもいい。
今一番気になり、かつ腹が立つのはそれを見た自分が一瞬でも恐怖を感じてしまった敗北感だ。もの凄く悔しい。
それ――短剣から目を離したサティリナは投げた男を再び睨んだ。
投げた手をそのままにしていた男はその睨みを真正面から受けたが、動じることなくふんぞり返るように腕を組んだ。
おそらく、男はサティリナが何か反応するのを待っているのだろう。
その態度すらサティリナの怒りに油を注ぐような形になり、サティリナはその挑戦状を受けてやることにした。
「……わかったわよ……ええ、そうですか……!
あっそう! じゃあ私が寝てやるわよ! おやすみなさい!!」
こうなればもう不貞寝である。
丁度体力も尽きて眠気を感じていたので一石二鳥だ。
「おい」
男からすればこれは想定外であったらしく、少し苛立ったような声がかけられたがサティリナは気にすることなく、冷たい石造りの長椅子に寝そべったのだった。
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石って寝ると超体痛くなる。
アイツにあれこれ言われ続けるのがイヤで寝たけど、起きたら全身が痛かった。
たぶん筋肉痛もあるんだろうけど、やっぱり寝るのには適してないみたい。
明日もまたクロエのお姉さんのためにも、アイツの「暇つぶし」に付き合わなきゃいけない。
クロエが小さく「嫌だったら逃げていい」みたいなこと言ってくれてたけど、でも本当になったら私が嫌だから丁重に断った。
ホント私で遊ぶなら仕事しろよいい大人のくせに!
暇人の相手って疲れる……がんばるけど。