日記116日目
ブローフの月17日。
気づけば私って、もう1週間以上クロエと一緒に昼食食べてる!
最近は昼食食べることにも慣れてきて、逆に昼食がないとお腹が鳴るようになった。
食べる量も少しずつだけど増えてきてるみたい。
クロエが嬉そうに言ってた。
毎日別の東屋で食べてるのに、まだ全部回れてないみたい。
太陽宮の庭園どこまで広いんだろ。
そう思って聞いてみたら、なんか奥の方の森じゃ時々狩猟もしてたって。
……お金持ち怖い。
今の皇帝は狩猟にも庭園にも興味がないって言ってた。
それでもいつ興味を持つかわからないから、庭師の人たちは手入れに手を抜けないとも聞いた。
それって、まるで妃たちみたいだなーって、ちょっとだけ思った。
あの人たちも皇帝の目に留まりたくて、んでもってあわよくば皇后になりたくて日々着飾って、少しでも自分を良く見せようとしてる……みたいだし。
でもだからってそのためにお姉ちゃんを標的にして良い訳じゃないし!
ドロドロの後宮事情に勝手にお姉ちゃんを巻き込まないで欲しい!
昨日もオバサンが機嫌悪くて、メイド使ってお姉ちゃんに嫌がらせしようとしてたし!
もちろん私が阻止して、お返しにオバサン用のお菓子にバッタ入れておいた!
なんであんな陰湿なのが好きなのかな皇帝も!
今日も快晴。
最近は少しずつクロエの怪我の治りも見えてきており、包帯は少なくなり頬に貼られていた布もなくなっていた。
サティリナはそんなクロエの鍛錬に付き合っており、腹筋のお手伝いや腕立て伏せの重り――クロエからは軽すぎて苦じゃないと言われてしまった――などの補助を行ったり、タオルを渡したりお茶を用意したりと手伝いを続けていた。
今も基礎は終わったということで、左手で鍛錬用の重石の着いた木剣を振るクロエを東屋から遠目に見ていた。
「ねえ、クロエー」
「はい! サティ様、どうされましたか?」
空を切る音で掻き消されていそうなのに、いつもクロエはサティリナが呼べばすぐに反応してくれる。そして今日も話をするためにその手を止めてくれた。
話しやすいように駆け寄ってきたクロエにタオルを差し出しながらサティリナは「あのね」と切り出した。
「皇帝陛下ってさ、胸の大きい人が好きなの?」
ちょっと気になったから訊いただけなのに、その瞬間クロエを含めて周囲が凍った気がした。青空を小鳥が飛んで行き、草花の香りを含んだ風が吹きぬけた。
「…………え?」
もう少し間が開いていたらサティリナからもう一度声をかけようと思っていた時、ようやくクロエからそんな疑問符が飛び出した。
良かった。聞こえていなかったわけじゃなかったようだ。しかし聞き返されたということは内容は伝わっていなかったらしいので、もう一度少し内容を変えて言うことにした。
「あのね。皇帝陛下って胸の大きい女の人が好きだよね?」
「え? ちょ、え??
お、お待ちくださいサティ様? ちょ、ちょっと落ち着きませんか?」
「私よりクロエの方が混乱してると思う」
幼い皇女の指摘にぐっと詰まったクロエが一度咳払いし、屈んでサティと目高を合わせた。
「えっと……どうしてそのような事を、急に?」
そう言えばそれもそうである。
思い至った経緯を省いてしまっていたことに気づいたサティリナは「あのね」と今の黄昏宮の事を思い出しながら説明した。
「最近、皇帝陛下からお呼びがないって、みんなピリピリしてんの。
特に『陛下のお気に入りだ』って威張り散らしてたオバサ――アーグレフト妃なんかもうイライラしっぱなしで、ちょっとめんどくさいことになってるの」
「は、はあ……」
「それで、そう言えば皇帝陛下って前はよく胸の大きい妃を閨に上げてたなーって――」
「ひ、ひひ姫様っ!?」
素っ頓狂な声を上げながらクロエがサティリナの肩を掴んだ。
少し青くなっている顔に驚いていればクロエが少し言いにくいのかゴクリと唾を呑んだ。
「ええと、その意味をご存知で……?」
それは『閨』という単語の意味に対してなのか、その言葉の指す物事に対してなのか。
とりあえずわかっていることは伝えておこうとサティリナは「うん」と頷いた。
「ちゃんとわかってるよ? 男の人が、女の人のケツに――」
「姫様ぁああああああああ!!!!!」
突如悲痛なクロエの叫び声を至近距離から浴びせられ、耳が痛むのを通り越して目を回した。くらくらする頭を押さえながらクロエを見ればもの凄くうな垂れて微かに震えているようだった。
「ひ、姫様っ――私はそんな方にお育てした覚えはありません!」
「え? う、うん。そう、だね??」
クロエは別にサティリナを育てていない。
会う頻度は増えているが出会ったのはレーティアよりも後である。
「でも別に見たわけじゃないよ? 知識として知ってるだけで……」
「それでも!! そのような汚いお言葉を使ってはいけません!!」
「う、うん……わかった」
レーティアと同じ事を言っている。というのはサティリナだけの所感である。
彼女の場合は顔を真っ赤にしながら窘めてくるのだが、クロエはどちらかと言えば衝撃を受けて激しく落ち込んでいるようだった。謎である。
相手が男ならこの話題はいけるのでは、と考えていたのだがどうやら違ったらしい。どこに違いがあるのか、と考え始めたサティリナであったが、はっと我に返った。
「って私の事はどーでも良いの!
それより皇帝陛下の話! クロエは皇帝が最近妃呼んでない理由知ってる?」
「え、あれ? それってさっきの話とは少々違うような……」
「うん。皇帝の好みが胸だろうと尻だろうとどーでもいいもん」
その辺りは重要じゃない、と首を振った。
「ただ私は妃たちの機嫌が悪いから、何で抱かなくなったのかなーって思っただけ」
「だ……っ」
「クロエは近衛隊長だし、皇帝陛下のことも知ってるでしょ?
その理由も知ってるかなーって」
「それは……その、まあ……」
罰の悪そうな顔でクロエがサティリナから視線を逸らした。
「なんでー?」
理由を聞き出そうと、少し自分でも気持ち悪かったが猫撫で声を出した。
「ええと、その……
他に気になる――可愛らしい方が現れたと申しますか……」
「えっ」
まさかの新規妃投入の可能性である。
というか、それはつまり……
「ふーん、皇帝陛下って節操なしなんだね」
英雄色を好むとは言うが、とうとう熟女路線から愛らしい若女路線に変更したようだ。
これはアーグレフト妃ならびに黄昏宮の妃たちに知られたら宮の中が大荒れになるな……そう大きな溜息を吐いていれば掴まれたままのクロエの手に力が込められた。
「え?」
顔を上げれば顔面を蒼白させたクロエ。
その目はサティリナ――ではなく、その後ろを凝視していた。
後ろに何が。そう振り返ったサティリナは見えたものに固まるしかなかった。
鋭く光る蒼い眼光にも、
見覚えのある冷たさを湛えた顔にも、
上から自分を狙うように向けられた剣先にも――
どれもが突然すぎて頭が追いつかなかった。
「姫様!!」
このとき、クロエが咄嗟に抱き込むようにしてくれなければ、その切っ先は真っ直ぐサティリナの心臓を貫いていただろう。
標的を見失ったそれが石造りの長椅子に鈍い音を立てて突き立てられる中、幼い体はクロエに抱きかかえられたままその場から少し遠ざけられた。クロエがすかさず距離を取ったのだ。
「チッ、小賢しい……!」
そう憎らしげに吐き捨てたのは黎明宮にて出会ったあの男であった。
ギロリ、と鋭い眼光がサティリナとクロエに向けられた。
「ど、どうしてこちらに……」
そう代弁したのはクロエ。
サティリナも同じ思いであり、男の眼光に負けじと睨み返した。
男と会うのは黎明宮以来二度目だ。
あの時はどこの誰かもわからなかったが、今ならわかる。
彼もまた『皇の蒼』を有する皇族であり、確証はないが皇帝が次にその座を譲りたいと思っている人物。皇帝同様、その座に着くために邪魔なサティリナを良くは思っていないだろう。
だからこそ以前会った時に幼い自分に対して、手酷い行いをしたのだ。
「今すぐその鼠を差し出せ」
ゆっくりと立ち上がり、東屋から陽の下へと出てきた彼は、暖かな気候など気にならないぐらいに零下の氷雪を纏っているかのように恐ろしかった。
眼光だけではく、気配や佇まい、全てで圧迫してきている。そんな雰囲気を纏っていた。
「っそれは……できません」
「貴様……忠誠をすぐに変えるほど尻軽だったか」
「そのようなことは決してございません!
――っ貴方様に誓った忠誠に翳りも偽りもなく、今もこの身は御身の剣にございます!
しかし! 私には帝国の未来たる姫殿下を危険に晒すこともできません!!」
そうクロエは自身の思いを叫びながら更にサティリナを抱き込んだ。
少し痛くもあるその力が、クロエの決意のような気がして本気で目の前の男から守ろうとしているのだとわかった。
無言で睨みあった男とクロエであったが、「フン」と男が小さく鼻を鳴らし、その眼光を様子を見続けていたサティリナに向けた。
「えらく大人しくなったな。いつもの減らず口はどうした。
今の俺は機嫌が悪い。今なら一瞬で貴様の息の根を止めてやるから何か話せ」
その言葉に、そしてその態度に一瞬で血が昇った。
それを間近にいるクロエは察したのだろう。「サティ様!」と小声で呼び止められたが、無理矢理クロエの口を手で遮りながら男を睨んだ。
「それ、何か話しても話さなくても殺すってことでしょ。
何で私がアンタ――おじさんのご機嫌取りのために死ななきゃダメなのよ!
皇族の人たちみんな短気なわけ!?」
「っ……!!」
「ひ、姫様ぁ……!!」
サティリナの言葉に男は剣を握っている手に力を込め、クロエからは悲鳴のような声が聞こえたが引き下がるつもりなどなかった。
殺されたくない。死ぬつもりもない。けれど抗えない死が目の前にあるのなら、もう言いたいこと言って死んだ方がマシだと思った。
「アンタなんか“おじさん”で十分よ! 名前だって知りたくもないわ!
言っておくけど、私からしたらアンタの年齢なんてみーんな“おじさん”だからね!?」
「え、それってつまりは俺も……?」
クロエの口から手を離し、そのまま男を指差せばどこか落胆の色を含んだクロエの声が聞こえたような気がした。
「言わせておけば……!」
そっちが話せと言ったからそれに従ってやったまでだ。なのに逆ギレのような雰囲気を醸し始めた男にサティリナはクロエの未だ負傷の跡が残る右手に向かって手を伸ばしていた。
クロエには悪いが、このままでは自分に向けられている怒りの巻き添えになってしまう。子供の自分の力などたかが知れており、握ったとしても大事にはならない筈――!
「ごめんクロエ!」
「なに――いいっ!?」
が、若干勢いがありすぎたらしくサティリナの手は叩く形でクロエの右手に当たった。
それでも一応の目標であった『痛みで力を抜かせる』という事には成功し、サティリナを抱きしめていた左手から力が抜けた。
その瞬間を見逃さず一気にクロエを押してその腕の中から抜け出した。
「サティ様っ!!」
クロエの悲痛な声が聞こえたが振り返ることはなく、サティリナは脇目も振らず近くの木立の中に入り込んだ。
低木を避け、なるべく直線にならないように走り抜ける。
慣れない不安定な足場はすぐに幼い足から体力を奪い、湿気のある空気が体温を高めてくる。
「いっつ……!」
何度も木の根や土に足を取られ、転びそうになった。
けれど少しでも時間を稼ぎたくて無理矢理足を動かした。
変に低木の間を走り抜けたため頬に葉が掠めて痛みが何度もした。
自分の鼓動や荒い息遣いが煩く、風が吹くたびに木々のざわめきが煩くて男が来ているのかどうかもわからない。こうなってしまうとやはり視認しか確かめる方法はなく、意を決してサティリナは一本の木を前に振り返った。
「――うわっ!?」
しかし自分の勢いが良すぎたのか、足場が悪いことに気づいていなかったのか盛大に足を滑らせた。
後頭部が木の根だろう硬い物に当たり、頭がぐわんと揺れて思わず目を瞑った。
「いった…………ひっ」
痛みに呻きながら何とか目を開けて――固まった。
いつの間にか男がサティリナに覆いかぶさるように上にいた。
そしてその手に持っていたのだろう剣が、木に深々と刺さっている。
風は吹いているはずなのに音が世界から消えた。
もしかして、転ばなかったら自分は――?
それを悟った瞬間、一気に胃の底が冷えた。
さっきまで走り続けて暑かったはずなのに今は寒気すらするほど冷えている。
鋭い眼光が真上から降り注ぐ中、未だ大きく脈打つ鼓動だけが自分の生存を教えてくれているか細い糸のように思えた。
男の蒼い瞳も、その双眸を含めた端整な顔も、ただ恐怖でしかない。
どうして今自分は生きているのか。そう不思議に思えた。
「――悪運も業故か」
男が小さく呟いた瞬間、世界に音が戻ってきた。
木々のざわめきも小鳥の囀りも耳に入り、サティリナは弾かれたように大きく息を吸っていた。
「けほっけほっ!」
しかし急に吸い込んだからかむせ返った。
そんなサティリナを尻目に男はゆっくりと立ち上がり、木に刺したままだった剣を勢いをつけて引き抜いた。
「命拾いしたな。鼠」
鼻を鳴らしながら男がサティリナを見下ろした。
「とっとと来い」
そう言い残し、視界の中から消えた男。
ようやく咳が収まったサティリナはその後を追う事も出来ず、地面に寝そべったまま揺れる若葉の天井を仰いでいた。
死ぬかと思った。正にそんな情況だっただろう。
悪運――男が言ったことは正しいのかもしれない。しかしそれがなければ今頃自分は本当に安堵すら出来なかった。
もう少し休まなければ一歩も動くことは出来ない。
そう四肢の悲鳴に従い、体力を回復させるためにサティリナは目を閉じた。
そこにガサリと枝か何かを踏むような音がして、周囲が暗くなった気がした。
「ん……?」
急に曇ったのだろうか。そう思って小さく目を開けたサティリナは一気に目を見開いた。
「遅い」
そう不機嫌そうな男の声がしたかと思えば、その大きな手がサティリナに向かって伸ばされた――
***
「ちょっとおお!! はなっ放してよ!?
く、苦しいってば! ちょっとは休ませてよ!!」
「黙れ。殺すぞ」
休もうとしていれば戻ってきたらしい男に胸倉を掴まれ、そのまま持ち上げられて運搬されてしまったサティリナ。
上手く力の入らない手足をなんとか動かして抗議するが、掴む男の手は叩いてもびくともしなかった。
「サティ様!」
「クロエ!」
聞こえた声に振り返った瞬間、視界が一気に動き、次に訪れたのは何かにぶつかった感覚と圧迫感、そして遅れてやってきた痛みであった。
「げほっ! けほっ!」
「っサティ様! 大丈夫ですか!?」
頭上から声がして、咳き込みながら何とか見上げればそこには心配そうなクロエの顔があった。どうやら地面に座り込んでしまっているクロエに寄りかかる形で自分は抱き込まれているようだ。
一体何が。そう混乱するサティリナの耳に届いたのは男の「フン」と鼻を鳴らした声だった。
はっとその方向を見れば男はいつの間にかサティリナから離れており、勝手に東屋へと戻っていた。
どうして男があそこに。いつの間に離れて――いや違う。自分が離れたんだ。
少し遅れて自分が投げられたことに気づいた。
先程まで捕まれていた服の部分を握り締め、怒りに顔を顰めた。
「サティ様……! あちこちお怪我をされているじゃないですか!
すぐに手当ての準備をいたしますので、どうかあちらでお休みください!」
かすり傷だらけの状態であることにクロエが気づいたようだ。
彼によってすぐに抱き上げられたサティリナは、不服であったが男の座る東屋に相席することになってしまった。
しかも男はいつの間にかバスケットから勝手に水筒を取り出し、お茶を飲んでいた。
それを横目で睨んでいれば、クロエの手が後頭部に触れた。
「って、瘤まで!?
ひ、氷嚢も取ってまいります! もうしばしお待ちください!」
そう言い、クロエは慌てて駆け出していった。
二人きりになってしまったが、男は気にしていないらしく二杯目のお茶を飲んでいる。
それを睨み続けているもの馬鹿らしく思い、サティリナは自分の痛む腕を見てから天井を仰いだ。
「軟弱な……あれだけで根を上げるとはな」
鼻で笑った男の言葉は、サティリナに向けられたものでありその言葉は先程のすぐに来なかったことに対する文句なのだろう。
正直男の方を見ることすら億劫であったが、言い返さなくては気がすまなかった。
勢いをつけて起き上がり、男を睨む。
「誰も大人の男に追いかけられることなんて想定して生きてないわよ!
どーせ私は軟弱な鼠ですよ疲れてるから話しかけないで!!」
「その割りに口はよく回るな。
その煩わしい口を今すぐ開けなくしてやろうか?」
男が鞘に納められた剣をこれ見よがしにちらつかせた。
「っ……
ど、どうせ黙ろうが喋ろうが、おじさんが殺したくなったら殺すつもりなんでしょ!」
「ふっ、そうだな」
「っ~~!!」
愉しそうに口元を上げながら足を組んだ男。
その動きがあまりにも様になっており、そう思ってしまった自分を含めて怒りが湧いた。
盛大に顔をしかめたサティリナが面白かったのか、更に笑みを強めた男にサティリナはこれでもかと睨んだ。
しかし頭に血が昇ったからか後頭部が痛むと同時に眩暈を感じ、再び石の背もたれに背を預けると天上を見上げた。
「自業自得だ」
「うるさい……」
きっと男はサティリナが足を滑らせた場面を見ていたのだろう。
呆れたような声に小さく言い返し、痛みから逃れるようにサティリナは目を閉じた。
クロエが戻ってきたのはサティリナが一睡した後だった。
遠くから呼ぶ声に起きれば、クロエが木箱と布袋を持ってやって来たところだった。
木箱の中には塗り薬や包帯などが入っており、こちらでいう救急箱のようだ。
手当てを受ける前に渡された布袋は冷たく、どうやら瘤を冷やすために持ってきたものらしい。すぐに腫れている後頭部を含め、頭に乗せられた。
ほぼ片手ながらも器用に手当てしていくクロエ。
その手際を感心しながら見ていたサティリナはそんな自分をじっと見てくる男の視線に気づいた。
「……何よ」
また軟弱だの文句を付ける気か。そう不貞腐れながら聞けば、男が静かに口を開いた。
「明日もここに来い」
その言葉にサティリナはもちろん、手当てをしているクロエも手を止めて驚いたように男を見た。
「来いって……
何でよ。来ても良いことなさそうなんだけど」
「鼠に拒否権などない。
お前は俺の良い暇つぶしだからな。また相手してやる」
なんという傍若無人な発言か。
しかもその『相手』というのは今日のように自分に逃げ回れ、という意味か。
男の物言いにサティリナは「何を……」と眉間に皺を寄せた。
「それって全然私に良いことないんだけど!?
嫌よ! 何でアンタの暇つぶしに私の体力裂かなきゃ――」
「来なければ殺す」
冷ややかに言い放たれた言葉に、更にサティリナはカチンときた。
何でもかんでも『殺す』と言えば従うと思っているのかこの男は――!
しかしサティリナが口を開く前に男が「だが」と言葉を続けた。
「お前はこれしきで折れんからな。方向性を変えてやる。
――クロエ」
「は、はい!」
急に男に呼ばれたクロエが返事を返した。
しかし男はクロエを見ることなく、その冷たい眼差しはサティリナに向けられたままだった。
「この男に姉がいることは知っているな? ――そいつを殺す」
「なっ!?」
「……は、い??」
クロエは男の言葉に顔を蒼白させ、そしてサティリナはその言葉で堪忍袋の緒が切れた。
『方向性を変える』それが自分ではなく他者を巻き添えにする意味だった……?
一気に顔を顰めたサティリナはまだ手当ての途中だった左手を思いっきりテーブルに叩きつけた。
子供の腕力なんてたかが知れており、手の痛みに反して響いた音もそれほど大きくない。
それでも何かで現さなければ今抱える怒りでおかしくなりそうだった。
「わ! か! り! ま! し! たぁーっ!!
私が! アンタの! つまんない暇つぶしに付き合えばいいんでしょ!?
たかが子供脅すのに他の人巻き添えにしないでよ!! 恥ずかしくないの!?」
「ないな。そしてお前はただの鼠だ」
「あっそう! そーですかわかりました!!」
そう言い切ったサティリナが盛大にそっぽを向き、そんな皇女にクロエが「サティ様……」と心配そうに名を呼んだ。
彼の気持ちはわかっているつもりだ。自分だって本当ならこんな野蛮で危険な男の暇つぶしになんて付き合いたくない。
けれど断れば本気で周囲を巻き込む気がして、サティリナは従う他ないのだ。今日はたくさん寝て、明日のために備えよう。そう静かに決心したのだった。
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今日は本当にムカついた!!
何でまたあの危険人物に会わなきゃだめなのよ!
会ってすぐに殺しに来たし、軟弱だのひ弱だの言いたい放題言ってきて!!
しかも「暇つぶし」に明日もアイツに会わなきゃいけなくなった!
絶対アイツ私が逃げ惑うのを追いかけて楽しんでんだ!
子供追い回して何が楽しいのよ暇人か!?
しかも今日だってお姉ちゃんにかすり傷見られて、凄く心配されたし……
遊んでたらなんかついてた。みたいな言い訳したけど……お風呂痛かった。
服だって泥だらけになった。明日は汚れても良い服にしよう。
頑張れ、私!!