日記66日目
リージアの月27日。
風はまだ少し冷たいけれど、雪もほぼ溶けて春っぽくなってきた。
夜のうちに庭師の人たちが頑張って、お花を整えてた。
まだ私の部屋の近くとかには雪が残ってる。
でももう半分溶けてたし、これももうすぐなくなるんだなーって思う。
最近は出てくる妃たちも多くなってきた。
でも全員が一気に出てくるわけじゃないみたい。
宮の中で優雅にお茶してる妃もいるってお姉ちゃんから教えてもらった。
妃たちは別に行動の制限とかないらしくて、何をするのも自由なんだって。
私とお姉ちゃんはその日の出てる妃数を見て、今日は散歩をするかしないかを決めてる。
あと、魔術使えるってわかってから、お姉ちゃんに見てもらって練習した!
そのおかげで最近はキレイに隠れられるようになった!
最初は私の姿だけしか隠せなかったけど、最近じゃ姿だけじゃなくて周りの景色も誤魔化せるようになったみたい!
魔術ってすごい!
その魔術のことは「かくれんぼ」って呼ぶことにした。
なんかもうちょっとカッコイイ単語でも良かったんだけど、あんまり大人っぽいとお姉ちゃんに不審がられるかなーって思って、この名前にした。
まあ、「かくれんぼで最強」ってのは間違いじゃないし、いいよね!
私はその「かくれんぼ」で隠れられるから散歩しやすくなったんだけど、どうやら効果範囲は私だけで、お姉ちゃんまでは隠せないみたい。
だから見つかったらお姉ちゃんが高確率で妃に絡まれちゃう。
おとといもそれでお姉ちゃんが他の妃に絡まれた。
みんなお姉ちゃんに嫌味しか言わない!
女の園にありがちな展開だけど、それが大好きなお姉ちゃんに向けられてるって思うと、何も出来ない自分がすごく悔しい。
どうにかできないかなあ……
そう悩んでいた皇女は今日も今日とてレーティアと庭園に出て――案の定、妃の一人に絡まれていた。
相手は今まで庭園では見かけなかった妃だ。
白い肌に艶やかに巻かれた黒髪。
威圧を感じる目は暗い茶色のようだ。
派手な真紅のドレスは寒い季節だというのに露出度が高く、蟲惑的な肉体を強調しているデザインだった。
香水もドレスに合わせて『薔薇』を意識しているのかツンと鼻に付く匂いで、皇女はレーティアの隣で密かに顔を顰めていた。
けれどその表情も、皇女の姿も目の前の妃や、遠巻きに自分たちを見てくる周囲には見えていない。
未だに自身では自覚できないが、どうやら『隠れたい』と強く念じるだけ皇女の姿は他から見えなくなるらしいのだ。
それこそ体重で踏まれている芝生の凹みから、小さな影まで。
他の魔術を見たことがないので比べようがないが、念じるだけでできるとはなんとも便利な術である。
しかしそれで隠れられるのは皇女だけであり、当のレーティアは一度捕まってしまえば逃げることも隠れることも出来ない。
真っ向から対峙する両者の間に緊張感が漂った。
「ご機嫌よう。エリジェナ妃。
ずいぶんとお部屋に篭られていたようで……
わたくし、ずっと心配していましたのよ?」
そう扇で口元を隠し、優雅に挨拶をした妃。
けれどその目は笑っておらず、背後に肉食獣のような幻影すら見える。
これが俗に言う『肉食系女子』なのかも。などと明後日なことを思ってしまった。
そして聞こえた『エリジェナ』という名がレーティアを指しているとわかり、小さく首を傾げた。
もしかすると妃に与えられている“渾名”のようなものなのかもしれない。
「心配は無用よ。アーグレフト妃。
私は与えられた部屋で、気ままに過ごしているだけ。
放っておいてくださるかしら」
冷めた声でレーティアが返し、更に両者の緊張が高まった。
「あら。陛下に賜った部屋に篭ることが、妃の役割であると?
それがアバロネストの教えなのかしら?」
「……」
『アバロネスト』それは以前レーティアが教えてくれた二大帝国のうちの一つ。
そして前に会った妃はレーティアの事を『皇女』と呼んでいた。
もしや彼女はアバロネストの皇女で、ここ『アンバルスト帝国』に嫁いできたということなのだろうか。
怪しげな紫色の瞳を細め、アーグレフト妃がゆっくりとレーティアに歩み寄った。
「あなたが“ここに来た経緯”はどうあれ……
今のあなたは偉大なる皇帝陛下の妃の一人。
その身で陛下を癒し、御子を授かるのが役目ではなくて?
あなたがどうしてもと言うのであれば、わたくしから陛下に――」
「……結構よ。
私はここにいることに意味があるの。
それ以上の事を誰にも望まれていないわ」
フフ、と小さく笑ったアーグレフト妃が、静かに口をレーティアの耳元へと寄せた。
「あら。違うでしょう?
――あなたは“何も望まれていない”。
妃としての役割も、人質としての価値も、皇女としての立場も」
レーティアの口元が引き縛られる。
「わたくし結構耳聡いの。
遠い異国の地であっても、あなたのこともたくさん聞き及んでいるわ。
見捨てられた、憐れな第三皇女様」
「っ!」
普段のレーティアからは想像が出来ないほど目が見開かれた。
しかしその表情は怒りと言うよりも悲しみに彩られており、それを見た皇女自身に、悔しさと怒りが湧き上がった。
その無駄に豪華なドレスでも引っ張ってやろうか。そう皇女が動き出す前に微かに震えた声が耳に届いた。
「……失礼するわ」
その声の主はレーティアであり、彼女はスカートを小さく持ち上げると足早に宮の入り口へと向かってしまった。
慌てて皇女も『誰も見てませんように!』と強く念じながらその後を追いかけた。
宮の中に入ったレーティアは真っ直ぐ自身の部屋へと入った。
大人の足に足音を立てずに追いつくのはかなり辛いものがあったが、なんとか皇女もドアが閉まる前に部屋へと入ることが出来た。
「……っ」
俯いたままレーティアは乱暴な足取りで進み、力なくソファーに座り込む。
その背は声を掛けられるような雰囲気ではなく、皇女は恐る恐る回り込むことしか出来なかった。
「……ううっ」
「……」
レーティアは両手で顔を覆っておりその表情が窺えない。
けれどその震える肩や微かに聞こえた声が、彼女が泣いているのだと知らせていた。
「そ、うだ……!」
突然、レーティアがはっと涙に濡れた顔を上げ、後ろを振り返った。
その顔はどこか焦燥に駆られており、皇女はどうしたのだろうとその視線を追った。
けれどそこには閉まったドアしかなく、その先には廊下が広がるだけのはずだ。
何か落としてしまったのだろうか。そう怪訝そうに見ている皇女の前でレーティアが立ち上がった。
「迎えに行かないと……!」
その言葉ではっと気づいた。
そう言えばあのときから今に至るまで、ずっと自分は“隠れて”いる。
そしてそれは未だレーティアに自分の姿が見えていない状態であることを意味していた。
「お、お姉ちゃん!」
慌ててレーティアの手を掴めば、弾かれたようにレーティアが自分を見た。
その目に安堵の色が見えたのを見て、手を放せば次の瞬間にはレーティアから抱きしめられていた。
早すぎる展開に、頭が追いつかない。
「お姉ちゃん……?」
「ごめんなさい。私……私……っ」
もしかして、忘れていた事を謝っているのだろうか。
抱きしめながら嗚咽を漏らし始めたレーティアの背に、静かに小さな手を回した。
「ごめんなさいっ……ごめんね……っ」
「……私は大丈夫だよ。ちゃんと一緒にいるよ」
どう言えば正解なのかもわからない。
だからそれだけしか言えず、後はひたすらレーティアの背を撫でることしか出来なかった。
その後、レーティアが落ち着いたのは日もだいぶ傾いた頃であった。
既に空は紫がかっており、そろそろ一番星が輝きだしそうだ。
窓から空を見上げていた皇女は隣で静かに座りながら、俯くレーティアを見た。
話す意思を込めて繋いでいる手を揺らせば、静かにこちらを向いてくれた。
「そろそろ、私帰るね」
居心地がいいこの部屋にずっといたい気持ちはあるが、それでもし皇女の失踪が発覚すればその責を問われてしまうのはレーティアになってしまう。
それだけは避けたいと思いそう切り出せば、レーティアが「もうそんな時間……」と小さく呟いた。
「あ。一人で帰れるから平気だよ」
「でも……」
「お姉ちゃんはお部屋にいて!
お外に出たらまたあのオバサンたちに何か言われちゃうよ!」
わざと『オバサン』の部分を強調して言えば、少ししてレーティアが小さく笑った。
「お散歩も、少しお休みしよ?
あ、ご飯も隠してるのがあるから大丈夫だよ!」
「でもそれは……」
「平気! 私には、この“かくれんぼ”があるもん!」
最近、この隠れる魔術の事を“かくれんぼ”と称していた。
えっへん! と胸を張る皇女に対し、レーティアは優しく頭を撫でると静かに立ち上がり、チェストの引き出しを開けた。何かを取り出し、大事そうに手で包みながら戻ってきた。
「なら、これを持っていって」
そう言い、手からはみ出ていた革の紐を皇女の首にかける。
大人用だからか紐が長く、お腹の部分にぶら下がったそれを手に取った皇女は目を瞬かせた。
「……鍵?」
それは一本の金色の鍵であった。
「この部屋の鍵よ。
いつもは鍵を閉めてしまっているから、何かあったらそれを使って入って」
「え、えええ!?」
それは、もの凄く重要な鍵ということではないだろうか。
『彼氏が彼女から合鍵を貰ったときの心境ってこんなカンジか!?』などと現実逃避しかけていた皇女ははっと我に返った。
「それって大切な鍵ってことだよね!?
だ、ダメだよ子供にそんなの持たせちゃ!」
「平気よ。あなたは私よりも賢い子だもの」
「で、でも……!」
「お願い。持っていて頂戴。私にはこれくらいしか出来ないから……」
そっと皇女の肩に手を置いたレーティア。
その表情が悲しげなものに変わり、何も言えなくなった皇女は頷くしかなかった。
そうっと廊下を覗いた皇女は周囲に人がいない事を確認してから、廊下へと出た。言葉は交わすことなく、手を小さく振ってすぐに魔術を発動させる。
人気の無い暗い廊下を静かに歩き、部屋へ戻ってきた皇女はドアを閉めると凭れかかりながら深い息を吐いた。
今日の自分は、なんて無力だったのだろう。
レーティアと知り合ってまだそれほど経っていない。けれど自分にとって彼女は姉のような、母のような大切な存在になっているというのに……誹謗中傷から助け出すことすら出来ないとは。
「っ……ダメダメっ!
弱気になったらお姉ちゃんに心配されちゃうし!」
自分は子供で、そして忌み嫌われている皇女だ。
下手に動けば皇帝に差し出される危険もある、ある意味不自由な存在だ。
けれどその皇帝に“見つからない”間は好き勝手が出来るということだ。
決して今の状況に嘆くだけが仕事ではないのだ。そう言い聞かせた。
「明日からは、一人で調べまわってやる!」
そう小さく決意した皇女は暗くなった空を見上げた。