それも分からなくなるくらいフリックは、森の中を彷徨っていた。
「…………」
大切なものの名を呟きながら、必死で探し続ける彼の胸は今にも不安に押し潰されそうであった。
彼女は別の世界の人間。
そしていつかは自分の世界に帰ってしまうのだと……。
それは頭では分かっているつもりだった。
だから決して好きになってしまわぬ様、フリックは無意識に心にセーブをかけていたのだ。
だが彼女が突然いなくなった今、その感情を抑えていた理性が崩れ去り、ようやくそれを自覚する。
そう……が自分にとって、掛替えの無い存在にまでなっていたのに気付いたのだった。
冷たく刺す様な空気に肺が悲鳴を上げている……。
だが、それでもフリックは探すのを止めなかった。
もし止めてしまったら、と自分を繋ぐ細い糸が切れてしまいそうで、怖かったからだ。
もうフリックの耳には、自分の荒い息遣いも、風が木々を揺らす音すらも聞こえてはいないだろう。
只、求める者の姿を探して、森の中を彷徨い続けていた。
森の外れまで来た時、揺れ動く木々の間からふと見上げた遠くの丘の上に、人影を発見した。
ハッとして目を凝らして見てみると、それはフリックが捜し求めていた少女の姿であった。
「あ……………!!!」
――は月を見上げていた。
ルックが別れ際に残した言葉、それに自分の内から溢れ出す想い。
いくつもの感情が複雑に混ざり合ったその想いに、は戸惑っていた。
『……それは……想いは『君』じゃ無いんだ。それに『僕』でも無い……。
だから……だから、その想いに僕達は……囚われちゃいけない!!!』
ルックの言葉が再び蘇る。
今のこの感情は自分自身のものではないのだと、彼は言った。
『確かに……そうよね。 だって私、
ルックくんに会うのは今日が初めてだもの。普通、懐かしく感じるはずがないよね』
だとすれば、これは自分の宿している紋章の記憶なのだろう……。
が胸に宿っている紋章にそっと手を当てると、『希望の紋章』はそれに答える様に、仄かに熱を帯びた。
何の紋章かは分からないが、あの少年にも真の紋章が宿っているのは間違いない。
ルックに触れた時、彼は『同胞』なのだと、この胸の紋章がそう語っていたのだ。
「それにしても……」
は表情を曇らせた。
それは別れる際、ルックが余りにも苦しそうだったから……。
今、互いの胸の中を占めている靄の原因が分かっているのなら、なぜルックはあんなにも苦し気だったのだろう?
確かに気を抜けば、その感情に飲み込まれそうになりまるで自分が経験したかの様な、錯覚に陥る。
だがには、ルックが感じている様な、苦しむ程の一体感までは感じていなかった。
なのでルックの気持ちが今一つ理解出来なかったのだ。
もちろんには、彼の本当の理由など、知る由もないのだが……。
もしかして彼の宿している紋章は、ルルドと深く関わりがあったのだろうか?
それともあの青年は、ルックと直接何か関係があったのだろうか?
いくつもの謎がぐるぐると頭の中を巡る。
ふとはルックに触れた時に見た、あの光景を思い出した。
――あの時見た光景。
それは断片的に脳裏に映し出されたビジョンにいた、青年の事であった。
その時は自分の記憶の様に、鮮明に映し出されていたビジョンだったのだが、いざ今思い出そうとしても、まるで『逃げ水』の様にするりと手からすり抜けてしまい、捕らえる事が出来ずにいた。
只、ルックがそのまま成長したような姿だった事だけは、なんとなく覚えている。
その漠然とした記憶の中、いつも存在している彼は笑っていて、優しい眼差しを自分に向けていた。
―― 自分 ―― それは正確に言えば、以前の宿し主であるルルドの事。
だとすれば、今溢れてくるこの想いは全て彼女の記憶なのだろう。
ルルドが彼に抱いていた……。
喜びと悲しみの感情。その中に含まれた、痺れる様な甘く切ない想い。
この世界に来る前のならば、それが一体何の感情なのか分からず、只 戸惑うばかりであっただろう。
だが彼女はすでにこの想いを知っていた。
「フリック…………」
その小さく呟いた言葉は、の口から自然について出たものだった。
初めて異性に対して感じた 『恋』 という感情。
本来なら喜びであるはずの想いなのだが、今のにとって苦しみ以外にはならなかった。
ここが自分の世界で、彼が同じ世界の人間だったのなら、ここまで切なくなる事は無かったのだろう。
――― 深く関わってはいけない。
自分はこの世界の人間ではないのだから ―――
目を閉じ、深い深い溜息を吐いた。
冷たい空気が肺の中を満たす。
それは、一時の感情に押し流されそうになる、自分の頭を冷やすのには丁度良い冷たさだとは思った。
「―――ッ!!!」
「え……?」
どこか遠くから自分の名を呼ぶ声が聞こえる。
今まで物思いに耽っていたは、その声で一気に現実に引き戻された。
声のする方に視線を向けて驚いた。なんとそこにはフリックがいたのだ。
「フ、フリック!?」
彼は深い雪に足を取られながらも、必死に駆け寄って来る。
他にも余り雪が積もっていない場所があるというのに、構う事無く 真っ直ぐこちらに向かっていた。
その姿はいつもの彼らしからぬ行動であった。
あっという間に辿り着いたフリックは、息を切らせながら膝を着き、呆然としているを抱き締めた。
「フリック……!? ど、ど、どうしたの? 急に……」
いきなり抱き締められたは、真っ赤になりながら驚いた。
だが、以前の様な焦りは無い。
なぜなら彼が膝を着いている為、頭が自分の胸の位置にあり、まるで子供に抱き付かれた気持ちだったからだ。
「ねぇ、フリック? 一体どうしちゃったの?」
「……行くな……行かないでくれ……
オレのいない所で消えたりしないでくれ……頼む……」
「フリック……?」
を抱き締めるフリック。
その手は震えていて、瞳は空を見詰め、うわ言の様に何度もその言葉を繰り返していた。
どうやら、今のの言葉は耳に入っていないらしい。
その口にしている言葉といい、いつもと違うフリックには困惑した。
自分を必死に抱き締めている青年は、まるで母親に置いて行かれるのを恐れている子供の様にも見える。
そして、なぜフリックがこんな事を口走っているのか思い当たった。
フリックの以前の恋人・オデッサを、彼が不在の時に亡くしてしまった事を……。
それ以来フリックは、自分の知らない所で大切なものを失う事にひどく恐れる様になっている。
以前、ミューズでその時の話を聞いて、はそう感じたのだ。
と、言うことは……
『私がさっき、ここから急にいなくなったから……?』
ドキン……と胸の鼓動が高鳴る。
もしかしてフリックは自分の事を、そこまで大切に思ってくれていたのだろうか?
以前の恋人と同じくらいまで……。
……まさか! と、思わずその考えには苦笑した。
自分が異世界の人間である事はフリックも知っている。
そんな異端とも言える存在に、誰が恋愛感情を抱くだろう?
あり得ないと思いつつ、それでも胸の鼓動は止まらない。
戸惑うはふと、レックナートが別れ際に言った言葉を思い出していた。
『貴方を心配する者が……』
あの時は誰にも会わずに出掛けたと思っていた。
だが、どこで見ていたのか、いつの間にか自分を心配し、追い掛けて来てくれていたのだ。
やはりルックの移動魔法の時に、ほんの一瞬 見掛けたあの青い服はフリックだった。
自分が急に消えた事で、彼には元の世界に帰ってしまったのだと思ったのだろう。
そう考えると、彼の言葉も頷けるのである。
抱き締める彼の手が氷の様に冷たい。
こんなになるまで自分の事を探してくれていたのか……。
そう思うと、たまらなく愛しさが込み上げてきた。
胸の鼓動も更に早鐘の様に鳴り響いて、の耳にはその音しか聞こえなかった。
このまま 『貴方の事が好き』 ……と言えたら、どんなに幸せか。
きっと今、告白すれば想いは叶うだろう。
だが…………
もし叶ったとして、その後はどうなるのだろう?
いつか来る別れの時、自分は果たして平静でいられるのか?
この問いには息を飲んだ。
『無理……。きっと私は平静でいられない……』
自分は元より、一度 心に傷を負っているフリックの場合はどうなるのか?
更に深く傷付けてしまうのではないだろうか?
そう考えるとは、否定する様に大きく頭を振った。
それだけは絶対嫌だと……。
――ならば、自分が出来る事は一つしかない。
は何かを決意した様に目を閉じる。
そして胸に溜まった想いを吐き出すかの様に、深い深い、深呼吸を繰り返した。
少しして、は自分を抱き締めている青年の背を、安心させる様に優しく撫でると、母親が子供にするキスを、フリックの額にする。
「フリック? ねぇ聞いてフリック。
私は何処にも行かないわ、だから安心して。ね?」
――どこにも行かない……。
その言葉を聞いた瞬間、それまで呪文の様に繰り返していたフリックが呟くのを止めた。
まるで呪縛から解き放たれたかの様に、我に返ったのだ。
「あ……」
焦点の定まらなかった瞳に、光が戻る。
今まで何をしていたのか分からず、自分がを抱き締めていた事に初めて気付いたのか慌てて腕を振り解いた。
「あ……、オレは……?」
『オレは今、何をしていたんだ……?
それに、なぜこんなにも動揺しているんだ……?』
呆然と自分の手を見詰めているフリック。
見詰めている内に、なぜこうなったのか今までの事が、次第に思い出されてきた。
『そうか、オレはを探してて……』
目の前のが心配そうに見ているのが分かり、震えを止めようと、焦るように手を擦った。
だが、思うように止まらない。
「くそ……! なんで……」
こんなみっともない姿は見せられないと、その手を後ろに隠そうとした。
だが、はそんなフリックの手をとり、慈しむ様にそっと自分の頬に当てた。
鼓動が、ドクンと高鳴る。
目を丸くしているフリックは、突然のの行動に驚いた。
だが戸惑いながらも彼女の優しさが嬉しくて、冷たく感覚がない指先に心地良い温かさが伝わった。
「こんなに冷たくなって……。ごめんね、心配かけちゃったみたいね」
「……」
申し訳無さそうにしている。
先程の取り乱した様子や、この手の冷たさを見れば、今まで自分が何をしていたか彼女はきっと察したのだろう。
これでは、自分の方が子供みたいだ……。
フリックは少し恥ずかしくなった。
そんなフリックの気持ちを他所に、は話を続けた。
「実は……さっきまで私、レックナートさんの所に呼ばれていたの」
「え……? レックナートの!?」
の口からレックナートの名が出て来て、フリックの心臓はギュッと締め付けられた。
あの時に感じた不安が、再び蘇る。
「レックナートが何でを……まさか!を元の世界に戻す為にか!?」
「ううん、ち、違うわ! …………レックナートさんは……そう!
異世界から来た私に、これから大変だろうけど、がんばれって言ってくれたの!只それだけなの!」
突然フリックに両肩を掴まれ、戸惑うは、困った様に説明をした。
それを聞いたフリックだったが、まだ少し納得いかないのか、訝しげに眉を顰めている。
「本当……か?」
「ええ!」
不安そうに見下ろすフリックを安心させる為、笑って頷いて見せる。
がなぜ本当の事を言わなかったのか?
それは、これ以上、今のフリックを不安にさせたくなかったからである。
本当の事は、もう少し彼が落ち着いてから……それに、レックナートが言っていた『宿星』と出会った後でも良いだろうと考えたからだった。
「だからこれ以上心配しないでフリック。ね?」
「あ、ああ……」
「それじゃ安心したところで、砦に帰ろっか♪
あれから随分と、時間が経っちゃったみたいだし……」
肩を竦めクスリと微笑むと、フリックの腕を引っ張りながら歩き出した。
ふとフリックはの格好が、薄手の服に毛布を羽織っただけだと気付き慌てて引き止めた。
「あ……!待てよ。その格好じゃ寒いだろ?ほら……」
フリックは自分のマントでを包んでやると、肩に手を掛け一緒に歩き出した。
「わぁっ♪ 暖か~い! ありがとうフリック♪」
嬉しそうに笑い、自分に身を寄せて来るを、フリックは複雑な面持ちで見詰めた。
なぜならの肩に触れた時、感覚の戻って来た指先にゾクリと甘い痺れが走ったのだ。
それはフリックの全身に広がり、言いようのない切なさが胸の内から込み上げた。
真夜中……それも真冬で雪に閉ざされた空間。今、この場所には自分との二人しかいない。
そう思うと、余計に意識してしまう。
先程の事で、フリックは嫌でも自分の気持ちに気付いたのだ。
そう……のことが好きなのだと。
オデッサの事は今でも忘れてはいない。
だが彼女に対する想いは、今にして思えば、同じ愛情でも『敬愛』の念であった。
言葉を交わす時も、肌を合わせる時でさえ、恋人と呼ぶには何かしっくりしなかったのは確かだ。
それとは違う純粋な想い……。それをには感じるのである。
『…………オレはもう、無しでは生きていけないのかもしれない。
だが、が自分の世界に帰る時が来たら、オレは平静でいられるのだろうか?』
――別れなければならない結末なら、最初から好きにならない方がいい。
あんな苦しい思いは、一度でもうたくさんだ!
その言葉がフリックに、今一歩、前へ踏み出す事をためらわせていた。
出来る事なら、ずっとこの世界に留まって欲しい。
いや……自分の側にいてくれるなら、どんな事でもしよう!
それが彼女を傷付ける結果になったとしても……!!
知らず知らずの内、フリックの心は暗い想いに支配されていた。
ささやかな願望が、いつの間にか、自己中心的な欲望に摩り替わりつつある事を彼は気付かなかった。
―― いっその事、
オレがの『
『……そう……だ。そうだ!そうすれば、彼女をこの世界に繋ぎ止める事が出来るかもしれない!
それでずっと一緒にいられる……』
「……オレは………」
フリックは立ち止まり、と向かい合うと、彼女のやわらかい頬にそっと手を触れた。
「あ……」
フリックの熱を帯びた真剣な眼差しに、見上げるの瞳は一瞬驚いた様に見開いた。
そのエメラルドグリーンの瞳は揺れ動き、不安そうな色を帯びている。
それがかえってフリックの気持ちを煽るとも知らずに……。
「フ……フリック……?」
彼の様子がいつもと違うのに気付き、怖くなったは思わず後ろへ下がろうとした。
だが、いつのまにか肩を捕まれていて、それ以上動く事が出来ない。
の胸は早鐘の様に鳴り響いた。
「……」
熱い吐息と共に、フリックの顔がゆっくりと近づいてくる。
フリックの表情にはいつもの優しい色は無く、有無を言わせない雰囲気が漂っていた。
じっと自分を見詰める彼の瞳から逸らす事が出来ず、益々は戸惑った。
思いもしなかった出来事に、普段の力は発揮されず、只、弱々しく抵抗を試みるもそれは全てフリックに押さえ込まれてしまっていた。
「、オレは……お前が……」
「やっ……! ま、待って、お願い……私……!!」
は必死になって腕を突っ張った。
と、その時………
何とかフリックの腕から脱出したものの、後ろが雪の丘になっているとも知らずは勢い余ってバランスを崩してしまい、後ろに滑り落ちた。
「わっ! わっ! わっ! きゃあ―――ッ!!!!」
「なっ……!? ……うわあッ!!!」
が落ちそうになったので、ハッと我に返ったフリックが、手を伸ばしたのだが間に合わず同じくバランスを崩した彼も、そのまま下へと滑り落ちて行った。
――月光に照らされた広い雪原に、風が吹き渡った。
その雪原の一つの丘には、頂上からふもとに向かって、二筋の線が走っている。
それはとフリックが、丘から滑り落ちた跡。
二人はうつ伏せのまま落ちたらしく、ふもとの雪に頭から突っ込む格好で静止していた。
滑り落ちる前がシリアスな転開だっただけに、それはある意味、涙を誘う結末だったと言えよう。
もし一通り、事の経緯を見守っていた者がいたなら、余りのギャップに絶句していただろう。
達もそうなのかは知らないが、二人は少しの間、雪に埋もれたまま動かなかった。
そんな中、流石に息苦しくなったのか、先にが顔を上げた。
柔らかい雪だったとは言え、顔面で数メートルも滑り落ちたのだ、その顔は少し赤くなっている。
「び……びっくりしたぁ! まさか落っこちちゃうなんて……」
周りを見回すと、ふと少し離れた所で、同じ様に頭から雪に突っ込んでいるフリックを発見した。
「フ、フリック!?」
は自分の体に付いた雪を払う事も忘れて、慌ててフリックに駆け寄った。
その上に覆い被さっている雪を、必死になって退かせていると、やっとフリックが起き上がった。
「よ……良かったぁ! 何ともなくって……」
「あ、ああ……」
フリックが無事なのを確認したは、心底ホッとしていた。
それを見たフリックは、複雑な心境になった。
先程、あんな事をしてしまったと言うのに、彼女はなぜ自分を心配してくれるのだろう……?
実は滑り落ちた後フリックは、雪に埋もれている最中に正気に戻っていたのだ。
正気に戻って初めて、自分のやった事の重大さに驚き、この後、彼女にどんな顔を見せれば良いのか、雪に中でもんもんと悩んでいた……と言う訳である。
自分でもなぜあそこまで、暗い想いに囚われていたのか分からない。
『彼女の意思を無視して『
これじゃあ あの
以前、『希望の紋章』を宿したを巡って、
彼は執拗に自分達を追い駆け、力を与えるだけのモノとして、彼女を手に入れ様としていた。
それは、たった今、己の勝手な想いだけで『
『何を考えてたんだ、オレは……』
自己嫌悪に陥るフリックは、俯き、深い溜息を吐いた。
…………と、そんな時、フリックの耳にの笑い声が聞こえた。
「プッ! ク……クククッ……」
「??」
それに気付いたフリックは、の方を見た。
なぜかは口を押さえながら、必死に笑いを堪えてこちらを見ている。
「……? どうした……??」
「プッ! も……もうダメ、フッ……アハハハハ!」
雪をバンバン叩きながら、お腹を抱えて大笑いしている。
そんな彼女を見てフリックは、面食らった顔をする。
自分が今、考えていた事に対して笑い飛ばされたのかと、一瞬ドキリとしたのだ。
だが…………
「だ、だって……フリックったら、雪まみれのまま真面目な顔してるんだもん!」
「へ……?」
サッと自分の顔を触ってみれば、まだ鼻の頭には雪が乗っており、眉の辺りにも付いていた。
確かに普段 整った顔だけに、そのギャップの激しさは笑いを誘う。
「何か……すっごくギャップがあって、カワイイー♪ フフフ」
「なっ!? そ、そう言うも雪まみれだろうが!」
「えっ!?ウソ!」
カワイイとから突拍子のない事を言われ、フリックは思わず真っ赤な顔になった。
その照れ隠しからなのか、慌てて言い返している。
そんなお互いの子供じみたやり取りに、とうとうフリックの方も吹き出した。
「プッ! ク……ククク! ハハハハハ!」
「フフッ。アハハハ!」
二人はお腹を抱えながら大笑いしている。
実際、それ程笑う事ではなかったのだが、極度の緊張感の後という理由もあって、まるで悩みを吹き飛ばすかのように、笑い続けたのだった。
「あ――っ! 可笑しかったね、フリック」
「ああ、全くだ」
ひとしきり笑った後、深く息を吐いた二人は、座り込んだまま夜空を見上げている。
その表情には先程の迷いや苦悩などの色は、すっかり消えていた。
いつもの前向きさを取り戻したは、自分が今 出来る事を考えた。
恋愛感情を抜きにして、客観的に考えると、自ずと答えは見えてくる。
なぜ今まで自分は悲劇のヒロインを気取り、それに酔いしれていたのだろう……?
世界が違う事で両想いにはなれないのなら、今のままで満足すればいいのだ。
人の気持ちを変える事は難しいけれど、自分の気持ちは自分自身だから、決意次第でどうにでも変える事が出来る……。
は小さい頃から父にそう教えられ、実践してきたのだ。
そして、いつかやって来る別れの辛さは今、考えてみても仕方が無い事。
ならばせめて、フリックの不安を和らげる方法を考えなくては……。
そう考えたは、彼の前に座り、向き合った。
「ねぇ、フリック?
もし……もしも私が自分の世界に帰れる時が来たとしても……ね?
私……絶対にフリックに黙って帰ったりしないわ!
約束する!だから…………はい♪」
微笑みながらは小指をフリックの前に差し出した。
「…………何だ、それは??」
フリックは自分に差し出された小指と、の顔を交互に見て、不思議そうな顔をした。
「これはね、私の国の約束の印なのよ♪」
はフリックの手をとり、小指を絡めて上下に動かしながら楽しそうに唄いだした。
「ゆびきりげんまん ウソついたら 針千本の~ます♪ ゆび きった♪」
唄い終わったと同時に小指を離す。
その変わった歌に、しばし呆気に取られていたフリックも、思わずプッと笑い出した。
「何だよ、それ? 面白い歌だな。フッ……」
フリックが笑ってくれたので、の顔も自然に綻ぶ。
「でしょ? 約束をもし破ったら、針を千本飲まなきゃいけないって歌なの」
「えっ!針を千本もか!?
そんな物、本当に飲んだら死んじまうぞ!大丈夫なのか!?」
その意味を知って、只の歌にも関わらず、フリックは焦った様に詰め寄った。
「アハハ! 大丈夫だって!
だから大抵は守れない約束はしないし、約束した限りは必死になって守らなきゃいけないのよ
……どぉ? これで安心した?フリック♪」
満面の笑みで自分を見ている少女。
目の前の少女は、自分を安心させようとしてくれたのだ。その心遣いに愛しさが込み上げる。
今のでいつの間にかフリックの心は、すっかり普段の自分に戻っていた。
「……ありがとうな、」
少し照れた様に礼を言い、くしゃりとその頭を撫でた。
嬉しそうに自分を見上げる。
その笑顔を見て、フリックは想いこそ届かなかったが、それでも良いと思った。
彼女のこの笑顔を見れるのなら……彼女さえ幸せでいてくれたのなら……。
『約束の印……か……』
先程、と絡めた小指を見詰める。
その小指からは、時間が経った今でも温さが感じられ、フリックは愛しそうにそっと唇を寄せた。
その後、砦に帰った二人は、見張りの兵士に見付からない様、出る時と同じく裏口からこっそりと入って来た。
注意深く足音を忍ばせたつもりだったのだが、酒場の前を通ろうとした時、いきなり誰かに声を掛けられた。
「よぉ、お二人さん!やっと帰ってきたか……」
「「 !!!! 」」
思いもかけない所で、声を掛けられた為、二人は思わず飛び上がるくらい驚いた。
そのバツの悪さは、飲み屋をハシゴして、午前様帰りになってしまったお父さんの気持ちに近かったと言えよう。(笑)
見張りの兵士に見付かったのかと思っていたのだが、それは予想外の人物であった。
「ビ、ビクトール!何でこんな時間に起きてるの!?」
なんとそれはビクトールであった。
彼は暖炉の前のテーブルで、酒を飲んでいた様だ。
お酒の入ったカップを掲げ、ニヤリと笑う。
「あたしも いるんだけどねぇ……」
カウンターに置かれた小さなランプの側には、レオナが夜着の上からショールを羽織り、テーブルに肘を付きながら、タバコをふかしていた。
普段はきっちり結われている髪が、後ろで簡単にまとめているだけなので、いつもと違った雰囲気で、何だか色っぽい。
「レ、レオナさんまで!?」
一口酒をぐっと呷るとビクトールは、カップを揺らす手を見詰めながら問いかけた。
「……ところでお前ら。こんな夜中に二人して、一体何処へ行ってたんだよ?」
ビクトールの質問はごく当然のものだった。
だが、その声は低く、どこか怒っている様にも聞こえる。
フリックは一瞬、ギクリとした態度をとってしまった。
結果的には疚しい事をしなかったのだが、実際ちょーっとやりかけてしまったのは事実である。
黙っていれば分からないのに、どうやらフリックはこっち方面の事については、シャイな分バカ正直に顔に出てしまう性分の様だった。
もう大人なのだから、別に夜出掛けようが、そこで何をしようが、ビクトールに報告する義務は無い。
普段の彼なら、そう反論していただろうが……。
「そ、そ、その……」
頭を掻きながら、もごもごと口ごもっているフリック。その前で腕組みしながら座っているビクトール。
その姿は夜遊びして遅くなった、娘の彼氏を問い詰めている様にも見える。
『何だかねぇ……』
レオナはタバコをふかしながら、そんな事を考えていた。
その時、後ろにいたがいたたまれなくなり、フリックに助け舟を出した。
「ま、待ってビクトール! フリックは悪くないの!!
その……ちょっと怖い夢見て眠れなくって、
それで……外で運動でもしたら、疲れて眠れるかな~って……
フリックは只、心配して来てくれただけなのよ!」
「……」
実際、初めはそんな理由からだった。
途中ルックが現れ、レックナートの所まで呼ばれたりはしたのだが……
はその時の詳しい内容と、後のフリックとのやり取りについては、話がややこしくなりそうなのでそれ以上の事は話さずにおいたのだった。
真っ赤になりながら真剣に説明する。
それを見ていたビクトールとレオナは、が余りにもフリックを一生懸命擁護するので思わず吹き出してしまった。
「プッ! ぶわっはっはっは!!! 」
「フ……ククク! アハハハ! 」
急にビクトール達が笑い出したので、驚く。
笑い過ぎて目に涙を溜めながら、ビクトールはバンバンとテーブルを叩いた。
「おい おい おい! ……ったく!もっとマシな言い訳しろよな。ククク!」
「い、言い訳…って。本当だもん!」
真っ赤になって詰め寄る。
どうやらビクトールには全て……とまではいかないが、ある程度お見通しだった様だ。
先程、が説明している最中、チラリとフリックを見た時、彼が一瞬、彼女から視線を逸らし、バツの悪そうな表情をしたからであった。
――二人の間に何かしらあったのは間違いない。
人を見る目に長けたビクトールだからこそ、そんな些細な変化も見落とさなかった。
ビクトールは軽く肩を竦め、少々複雑そうに、軽く溜息を吐いた。
『あのフリックがねェ……』
オデッサを亡くして以来、どんなに周りに女が集まって来ようとも、フリックは見向きもしなかった。
相棒としては、少々……と言うか、かなり心配だったのだが……。
ここに来てやっとの事、昔しの古傷を忘れ、異性に目覚めたのかと思えば、その相手は自分達の身近にいる異世界の少女、だったとは……。
ビクトールは複雑そうに少し眉をしかめると、もう一度酒を呷った。
酒を呷りながら、チラリとを横目で見るビクトール。
の様子が、余り変わらない所を見る限りでは、きっとフリックの行動は不発に終わったのだろう……。
その様子が容易に想像出来、ホッとした反面、同じ男として哀れに思ってしまったのだった。
「へい へい。まっ!そう言う事にしといてやるよ、
……どうやら不発に終わったみてェだしな」
「???」
その言葉が何を意味しているのか分からず、首を傾げる。
ビクトールはフッと笑い、くしゃりとの頭を撫でた。
一方的に言われ続け、面白くないフリックは、今度はこちらが疑問に思っている事を口にした。
「そ、それより、お前こそ何でこんな時間に起きてるんだよ!?」
「え?オレか?オレもその……と一緒だ。
寝付けなくってヒマだから一杯やりに来たんだよ」
「それじゃあたしも、そう言う事にしとこうかねぇ。フフフ」
「…………」
どうやらビクトール達の方が一枚上手の様だ。
もしかしたら自分達がここを出た時から、気付いていたのかもしれない。
ヘタをすればあの場面も、どこかで見られて……。
背筋に汗が流れる。
もうこれ以上考えると怖い考えになるので、フリックはこの話題に深く突っ込むのを止めた。
「ま! そんな所に突っ立ってねェで、ここに来て酒でも付き合えよフリック♪」
「あ、ああ……」
項垂れているフリックに酒を勧めるビクトール。
弱味を握られている訳ではないのだが、ニヤリと笑った含みのある笑みに逆らえずフリックは観念した様に、ビクトールに付き合う事にした。
「。あんたにはホットレモンでも入れてあげるよ。
冷えた体にはこれが一番さ」
「きゃーっ、嬉しいッ!ありがとうレオナさん♪」
外はまだ雪が降り積もる、真冬の季節。
だが一日一日と時が経つにつれ、確実に春は訪れる。
――そう。その春の到来と共に、達を飲み込む大きなうねりがやってくるとは、この時、誰も知るよしはなかった………。