〇捌【 蛍・上 】
それは私―― が小学一年生の頃。どういう経緯で知り合ったのかも、どうして仲良くなったのかも覚えてはいない。
顔も姿も、声だって覚えていない“その人”を、私はとても慕っていた。
幼い恋心と言うわけでもなく、ただ純粋な憧れだ。
こういう人になりたい。少しでも近づけたら。
当時の私はとても臆病で、泣き虫だった。
対してその人は外に出る事を楽しみにしていて、知らないことだって進んで挑戦しているのだと、私に語ってくれた。
もし彼ように、何でも楽しめて、外に出て行けたなら、それはきっととても楽しいことなのだろう。私も、そんな風になりたいと思った。
『お兄ちゃん!』
私はその背に少しでも追いつきたくて、そう呼んでは必死に追いかけていた。
彼の大きな手に撫でられれば嬉しくなったし、手を繋いでもらってとても安心したのも覚えている。
彼が隣に立ってくれていて、手を繋いでくれていたから、私は“それ”見ることができたんだ。
一緒に見た、満天の――
――
――
――おい。
「……ん?」
意識がすっと浮上したところで、誰かの声が入ってきた。
目を開ければ自分の手があって、その向こうには黒い丸太のような何かがあった。
「Wake up. 。着替えたらとっとと出るぞ」
そう頭上の方から声がして、言われるままに身を起こす。
それに従い、視線が丸太のようなものを上へ向かって伝うことになり、すぐに知っている蒼い羽織が目に入った。
「Good Morning」
そう少し疲れたような声と共に、顔を見る前にわしゃわしゃと頭を撫でられる。
いでで。と乱暴なそれによる痛みで、私は瞬時に色々と思い出した。
こ、こいつ昨日言われたってのに……ってかまさか本当にあの“構ってる”は――
「言っとくが、ここはまだ城じゃねえ」
どうやら顔を上げた私の表情が物語っていたらしい。
欠伸を混じらせてそう言い切った眼帯・伊達 政宗は悪びれず、刀を持って立ち上がった。
そしてその足で、元々割り当てられていた隣室へと入っていったのだった。
「え…………まさ、か、マジで構って、た?」
その背を見送った私の口から、そう零れたのは――間違いではないはず。
確かに、あの眼帯はよく話しかけてくるなーとは思っていた。
もう他の人と合流したのだからその人に任せればいいのに、とも薄っすらと思っていた。
ついでに言えば、眼帯の一番信頼できる人・片倉 小十郎さんが私の経緯を知ったのだ。
後のこともほぼ小十郎さんが見てくれるようだし、彼に任せれば良いはず。
なのに……何故にあの眼帯に起こされたよ私。
え、やっぱり『拾ったから』とか言う、要らん責任感から……とかだろうか。
うーん、と悩んでいた私は、かなり上の空であったらしい。
衣擦れの音と共に腹に圧力が加わり、覗き込むようにこの家の奥さんの顔が見えた。
「はい。終わりましたよ」
「っあ、ありがとうございます」
一瞬『誰』と言いかけたが、すぐに思い出せて良かった。
声を上ずらせながらも礼を言えば、奥さんはにこりと微笑んだ。
いつの間にか布団は畳まれていて、気づけば自分の服も変わっている。
若草色の着物に、紺の袴。
母方の血が現れている私の髪色は明るい赤茶髪で、目は暗い青だ。
それと合わせれば、『まあまあ似合っている』の部類に入る色合いなのだろう。
――全て男物だが。
きっと今の私を見たら、また母が『そうじゃない』と怒りそうだなー。
本当に……両親を思うと胸が痛い。
しかしこれから向かう先のことを考えればこれが妥当であり、当分の間はこれが基本の服装となるのだ。それにもう“男”と思われるのは今更なのだし、その点からも不満はなく、もう悟りのような境地だった。
そう諦観の笑みを浮かべていれば、ふと奥さんが私をじっと見ている事に気づいた。
「えっと、似合ってませんか?」
もしかして、と思いそう声をかければ、奥さんが慌てて首を横に振った。
「いいえ。とてもお似合いですよ。
その……息子たちもいつかは、と思ってしまいまして」
奥さんの子供は、どちらも男の子だ。
昨日会った、腕白な弟と少し警戒心の強い兄。
「ああ。昨日見かけた……」
もう会話もしてしまったのだが、そこはあえて秘密にしておいて、当たり障りのなさそうな相槌を打った。
こちらを気遣ってなのか、昨日は『迷惑をかけてはいけません!』と二人が押し留められているのを見ていたから。
勝手に会っていて、しかも話しまでしていたと知られれば、二人が怒られてしまうかもしれない。
奥さんにとって二人は自慢の息子なのか「はい」と笑顔になり、二人について少し話してくれた。
どうやら兄が六歳で、弟が二歳であったらしい。
あのやんちゃさはいつものことであるらしく、元気なのは良いことなのだが、それ以上に手を焼いているのだとか。
「今から待ち遠しいですね」
子の成長を早く見たいと思うけれど、同時に今の愛らしい時期を留めておきたい。――そう思うのはきっと母親なら同じはず。
帰国の度に母が『あんなに小さかったのに』と嬉しそうに、けれど少し寂しそうに零すのを聞いていた私は、そう思って言っただけなのだが……奥さんは少し驚いたように目を見開いていた。
その表情の意味を私が問おうとする前に、小さく部屋の障子が開かれた。
「! ――げっ、母ちゃん」
声を潜めて私を呼んだのは、丁度話していた兄弟だった。
どうやら間がかなり悪ったようだ。私の気遣いもこの時点で意味をなくしてしまった。
母親である奥さんを見て顔をしかめた兄に対し、弟はあまり状況がわかっていないようで、きょとんとしていた。
「まあ! また言いつけを破って!」
今までのしおらしい態度からがらりと変わり、すぐに母の顔になった奥さん。
母の言葉に「うっ」と詰まる兄。しかし弟はそのまま障子を開いて中に入ってきた。
「! ! むし、むしっ!」
「む、虫じゃない!
私に駆け寄ろうとした弟はすぐに奥さんによって抱き留められた。
けれどその小さな指は兄を示しており、たしかに兄は何かを捕まえてきたのだろう両手を籠のように丸く合わせていた。
それを見た奥さんの視線が一層厳しくなる。
「それをお客様にどうするつもりなの? さあ、早く――」
「ああー、いいですよ。昨日見せてくれるって約束してたんです」
奥さんの言葉を遮るように兄を見れば、兄は小さな頭を何度も振って肯定した。
約束というほどのものでもなかったのだが、どうやら律義に捕まえてきてくれたようだ。
奥さんが何かを言う前に、と私が手招けば兄は母を避けるように距離を置きながら私の元まで駆け寄ってきた。
その場で手を放しそうになったので、慌てて兄を抱え上げる。
不格好ではあったが、そのまま窓枠近くに兄を寄せた。
ここであれば、その“かわず”が虫であっても奥さんに迷惑は掛からないはずだ。
「うっ、意外と重い……」
素直に感じたまま、私はそう小さく漏らした。
どうやら至近距離の兄に聞こえていたらしく、少し誇らしそうな顔になっていた。
「ほら、ここから手を外に出して、見せてください」
「ええーっ! それじゃあ逃げるだろ!」
「えー……ってか、なんにも音が聞こえないですよ?」
「えっ!?」
死んでない? と遠回しに指摘され、慌てた兄が手を開ける。
ゲコ。と手の中にいた緑色の小さなそれは、一鳴きすると柔らかな陽ざしの中へと飛び込んでいった。
「あ……ああー!!」
どうやら“かわず”とはカエルのことであったらしい。
惜しそうに窓枠にしがみつく兄をそっと下ろす。
「へえー。あんな小さいの、よく捕まえてきましたねー」
「お、おれ! がんばって、早起きしたんだからな!」
「見てましたよ。緑色の、小さな“かわず”でしたね」
若干涙目になっているようにも見える、眉を下げた兄の頭を、労うように撫でた。
次は大きいのを! と何故かまだ捕獲する気満々の兄は、母に手を引かれて弟と共に強制退出していった。
ヒュ~。
茶化すような口笛に視線を向ければ、隣室とを隔てる障子が開いており、そこから眼帯が生暖かい視線を向けていた。
「少しの間によく懐かれたじゃねえか」
「そうですか? 子供ってああいう感じだと思いますけど……」
私の知る“日本”でも、こちらでも、子供の私への対応はそれほど変わっていないように思う。
もし違いがあるのなら、それは周囲の目ではないだろうか。
こちらの方が神経質になっていないというか、大らかな気がする。
「アンタ、見事に“なくなった”な」
いつの間にか部屋に入ってきた眼帯が、そう哀れんだ目で私を上から下まで見てきた。
っていうか、その“ない”は何に対してだ? 胸か? 性別か?
――まあ、どちらにせよ眼帯がそういうのなら、今の自分は完ぺきに“男”なのだろう。
と、いうか……
「政宗様。ですからあまり接触されますなと」
そう眼帯越しに呆れた声がした。声の主は、隣の部屋にいる片倉 小十郎さんだった。
「……わーってるよ」
そう言うやいなや、突然私の頭をわしゃわしゃと撫で、眼帯は隣の部屋へと戻っていく。
いや、だからそういうところだって。
と言う目線が、私と小十郎さんの二人から眼帯へと刺さっていた。
簡単な朝食後、一行は村長さん家を後にして、村の入り口まで来ていた。
入口ではすでに良直さんたちが馬の準備をしており、私はここに来た時同様、小十郎さんと相乗りする予定であった。
「、もう行くのか!?」
大人たちの制止を振り切って、駆け寄ってきたのは兄だ。
大きなカエルはまだ捕まえられていないらしく、何もない手をぎゅっと握りしめていた。
そんな兄と視線を合わせるようにしゃがみこんだ私は、ポンポンとその小さな肩を叩いた。
「んー。なんかそうらしいです」
予定を立てているのは眼帯であったり、小十郎さんだ。
私は保護されているような身なので、その辺りは流されるままであったりする。
なので素直にそう伝えれば、兄の顔が一瞬泣きそうにゆがんだ。
「の好きな虫は!?」
「はい?」
何故に虫。とも思ったが、こういう子供の突拍子のない考えには慣れている。
これでも一応幼い彼らなりに考えての質問なのだ。いつも唐突すぎて困るが。
今回にしても、それはどういう意味なのか……まあ、ここは当り障りなく答えておこう。
「蛍……を“見る”のが好きです」
場所によっては虫を食す文化もある日本。
どこでどう捉えられるかもわからないので、そこを強調しておいた。
「ほたるだな! わかった!」
力強く頷いた兄に私も頷き、その肩を放してやる。
すぐに踵を返した兄は、はらはらと見守る家族の方へと駆け出した。
「大きいの、つかまえるからなー!」
だから今度見に来い。そう言いたげな兄にどう返すべきなのか迷いながら、とりあえず手を振っておいた。
そう言えば、昔私が“蛍”を初めて見たときも、彼と同じ位の歳だった。
満天の星空の下、大きな池と、小川の上を飛び交う、たくさんの小さな光。
私一人では、絶対に見れなかった光景――
――瞬間、私の思考を遮ったのは、重心が勝手に後ろへとずれた感覚だった。
我に返り、それが誰かによって後ろ襟を掴まれたからだと分かった。
「は!? え、な、何!?」
よたよたと、不格好だがとりあえず転ばないように後ろへ向かって足を動かした。
「政宗様!」
咎めるような小十郎さんの声を聞いて、すぐに私は引っ張ってくる犯人を知った。
――ってまたお前かよ!?
「ちょ、何ですか!? 昨日言われたことホントに覚えてます!?」
「Shut up! アンタはこっちだ」
こっちとはどっちだ。そりゃ、いわずもがな――
「っていやいやいやいや! 私普通の馬が良いんで!
マフラーとかハンドルとか謎装飾された馬さんは走るの大変そうだから遠慮します!!」
視界の端にちらと映ったのは、昨日見たときから『うわー』とドン引きしていた、謎装飾を施された眼帯専用の馬だった。持ち主の品性が疑われるぞお馬さん可哀そう。
「第一、なんで馬にアレ付けたんですか!?
言っときますけど、ツノ生やして赤く塗ったって三倍早くなる訳じゃないんですよ!?
ってか外してやれよ本当に馬が可哀そう!」
ガス!
そう馬を気遣っただけだというのに、本日最初の
そしてそれに痛がる間もなく両脇から持ち上げられ、そおい! と我が体が浮いた。
「ふぎゃ!!」
ドスン、と綺麗に鞍の上に投げ落とされる。
私は尾てい骨を物凄く打って痛がり、馬も突然加わった重みに驚き、足踏みをしてバランスをとっていた。
申し訳ないお馬さん!
でも反論も報復もすべて謎行動を起こす眼帯にしてくれ――ってか今の私が物凄く抗議したい!!
慌てて降りようにも、それを遮るように眼帯の手がハンドルに掛けられ、私は密着を避けようと馬にまたがり直し、前に詰めた。
空いた後ろにはもちろんの如く眼帯がすぐに跨った。
「世話になったな」
短くそう村の人たちに礼を言った眼帯。
「Ha!」
そして馬の腹を勢いよく蹴った。
もちろんのこと、馬は嘶きながら前足を大きく振り上げた。
「おわあああああ!?!? ――ぶっ!!」
眼帯のタイミングでそんなことをされれば、私がついていけるはずもなく……
見事に後ろへと倒れこみ、眼帯の鎧だろう固い何かに後頭部を強打した。
「政宗様!!」
「ひ、筆頭!?」
怒る小十郎さんの声と、困惑する孫兵衛さんの声。
その二つは馬が走り出したことですぐに遠ざかってしまった。
激しい振動と目まぐるしく変わり始めた風景。
私は痛む後頭部を片手で押さえ、振り落とされないために仕方なくハンドルらしき取っ手を握った。
そしてはっと顔を後ろに向けた。
「ってかお礼!」
「オレが代わりに言っておいたじゃねえか」
「はあ!? 代弁頼んでないですけど!? ――っ」
昨日の速度はやはり私を気遣ってくれていた、のだろう。
打って変わって今の振動は、乗りなれていない者からすれば固定されていないジェットコースター並みに辛い。
何とか勢いで抗議できたのも最初のうちであり、舌を噛みかけた私はすぐに歯を食いしばり、口を閉ざした。
「Ha! 利口じゃねえか!
ちょいとばかし飛ばさせてもらうぜ、!」
「っ!?」
これが全速力じゃない、だと!?
「YA-HA!!」
私の些細な驚愕など吹き飛ばす勢いで、豪快な掛け声が響き渡り――本当に更に馬が加速したのだった。
加速したのなら、そりゃ受ける風だとか振動も増しになるわけで……
乗馬経験皆無な私が、もちろん最初からそんな速度と振動に耐えられるはずも無く……
運転手(?)である眼帯が「この辺りでいいか」と馬の速度を落とすまで、私の記憶はすっぽりと抜けてしまっていた。
……こ、ココハダレでワタシハドコ……
「Ah? ったく――」
ハンドルを固く握って突っ伏すかのようなままの私の背で、眼帯が何かを言ったような気がした。薄っすらと、その呆れたような声音に怒りを覚えていれば、手が強制的にハンドルから剥がされた。
それに気を止めることなく固まっていれば、今度は腕を引っ張られて、ずり落ちるような形で馬から下ろされた。
昨日よろしく再び小脇に抱えられて、気がつけば大きな河が流れる河原に座らされていた。
バンッ!!
ようやく私がその事を認識したことと、背中を思いっきり叩かれたのは同時だっただろう。
「っゲホ、ゴホゴホ!!」
思いっきりむせ返り、私は口元を拭いながら叩いてきた相手――眼帯を思いっきり睨み上げた。
と、その視界を遮るように何かが差し出された。
「飲んどけ。ったく、あれだけで目ぇ回すとか……」
「っ……悪かったですね……!!」
差し出されたそれが水筒であると認識した私は、ひったくるように受け取った。
乱暴に栓を開け、ぐいっと喉に流し込んだ。
二口ぐらい飲み、息を吐いて水筒に栓をしたとき、ようやく三半規管も息を吹き返したようだった。
急にキンと痛み出した耳を、慌てて押さえる。
「み、耳痛い……」
「しばらく深呼吸しとけ。そのうち収まる」
癪ではあるが、とりあえず言われたとおりに深呼吸を繰り返した。
息を大きく吸い込む度に、知らない風が河の匂いと、初夏の香りを運んでくる。
「……」
何度目かの深呼吸をしていたとき、不意に呼ばれた。
ちらと眼帯を見たけれど、私より前に出ていたし、河の方を向いているのでその顔は見えなかった。
「アンタ、何で蛍が好きなんだ?」
「……は?」
まさかの質問に、私は思わずそう訊き返していた――