〇壱【 寝坊は計画的に 】
拝啓。海の向こうにいるお父さんとお母さん。私が中学二年生に上がって、もう早一ヶ月が経ちました。
娘は現在進行形で立派に育っております。
私の周りも少しずつ、夏の気配が近づいています。
近くの公園に咲いていたタンポポも、徐々に綿毛に変わってきていて、近所の子供たちによって蹂躙され始めてきました今日この頃。
「あ……あああああああああ!?!?!?」
人って、追い詰められた時が、一番真に力を発揮すると思うんです。
…………え? 何でそう思うのかって??
うふふふ。
現に今!! ……私がその状況だからです。
「なななななな、なんっ……なんんんんっ!?
ヤバイヤバイヤバイですって!!
何故に寝坊したよって昨日めちゃくちゃ遅くに寝たからですよね!?」
――そう。私、 は今日、本格的な寝坊をした。
昨日、色々あった所為で睡眠時間を大幅に削ってしまったからである。
だが後悔は――ある。今、めちゃくちゃ後悔中である。後悔なう。
脳内で届くことの無い両親への手紙を考えてしまう程度には混乱もしている。
いつも早めに起きているので五分や十分ぐらい寝坊しても平気で予鈴に間に合う私だが、今日ばかりはマジで無遅刻無欠席に傷付きかけていたりする。
予鈴の時間は八時半。
しかし我が目覚まし時計の短い髭は八の字を通り越しているし、長い方はもう三を過ぎているのだ。
家から学校まで十分、教室が最上階の四階にある私はマジでヤバい状況。
「落ち着け! 落ち着くんだ私ぃぃ……!!
ず、ズボンドコ!? えっと、体育は今日なかったから……」
今日の時間割を思い出しながら、長袖のカッターへ袖を通し、制服の灰色チェックのズボンを跳ねながら穿く。
朝っぱらから一階へ振動が伝わろうとも、私は気にしませんとも!
……私以外の住人といっても、あと一人だけなんだし。
冬服から夏服までの移行期間である今は、
今日は昨日の予報で暖かくなると言っていたので、遠慮なく放置させてもらう。
移行期間に感謝しつつ、私は鞄に今日必要な国語辞典と、机の上に出していたペンケースを放り込んだ。
教科書やノートを置き勉してて良かった!
「あああ!! チクショウ!!
なんでこんな時に限って季節外れの台風とか、エイリアンの襲来とか、魔王復活とかしないんですかね!?」
鏡を見ながら手ぐしで髪を軽く梳きつつ泣き言を言ってみるが、言っても状況の改善にならないのが世の悲しさである。
まあ……それで何かが起きてしまえば、突然の超常現象に世界経済どころか私の思考回路も急停止するだろうけど。
ちら、ともう一度時計を確認した…………のが悪かった。
現実逃避しかけている間に、更に進んでいた時計を見て、私は顔を青ざめさせた。
「うおおおおおおおお!!!」
そんな雄たけびを上げながら、二階にある我が部屋を飛び出し、階段を段飛ばしで降りる。
最後にダン! と大きく一階の床を踏めば、視界の端に何かが迫った。
「――ほい」
「うおわあ!?」
目元に迫ったそれを避けようと、未だ持っていた階段の手すりを支えに身体を反らす。
少し離れて見てみれば、それが何かのパッケージであると認識できた。
「ほい。ちゃんと全クリしといたから。
次回作も超特急でヨロシクって言っといてねー」
そう徹夜明けだろう目の下のクマを隠さず、欠伸交じりに言うのは父の妹で、私からすると叔母であり、もう一人の住人であった。
「いや、だからって目元は危ないですからね!?」
「ほらほら、さっさと行く。
ご近所さんには、『新しいゴリラ飼い始めた』って言っとくから。
叫んで走っても
「いや、姪の扱いの酷さよ!!」
もう片方の手で親指を立てる叔母にいらっとしながら、私は差し出されていた“何か”――ゲームを掴んだ。
パッケージにはCGグラフィックで描かれた紅と蒼の二人の男と、竹スルメだかなんだかの家紋とタイトルロゴ。
これを
……え? ゲームは大切に??
だ、大丈夫でしょう! なんか中古って言ってたし。
「あー、そうそう。
ドア開ける時に気を付けてね。
なんか歪んで――今にもあっちに倒れそうだから」
「ああ、はいはい!」
とりあえずゆっくり開ければ良いのだろう。
そう自分の中で解釈し、私はローファーを履き始める。
「思ったよりクリアに時間かかっちゃってさー。
やっぱ時間歪ませてのチートはあんまやるもんじゃないわよねー。
すぐ修復できればいいんだけど、もしかしたら――」
「いってきます!!」
履き終わった私がそう元気よく――若干怒気を含みながら言えば、叔母も「ああ」と我に返ったらしい。
「いってら~」
やる気のない声が返ってきた。
その声を背に、私の手に力が籠る。
ガチャリ、とドアノブのロックが外れて扉が開いていく。
外の日差しがドアの隙間から入り、一瞬目を細めた。
さあ、ここから私の長距離走が始まり――
ぐっ。
「って重っ!?!?」
急にドア自身に引っ張られる感覚を覚え、思わず言ってしまった。
「あ」
やっちまったか。そう言いたげな叔母の声を背後に聞き、私は慌てて振り返った。
いや、別に私はなにも――
そう言い返そうと口を開いた私は、目の前に映った人物を見て、目を見開いた。
――瞬間、時がぐんと遅くなった感じがした。
「な――」
小さく聞こえたその声は、はたしてどちらのものだったのか。
なんだテメエ。
その人物がそう言いたいのは、なんとなく雰囲気で分かった。
しかし声音はよく分からない。でもきっと、見た目相応にオッサン声なのだろう。
痩せていて、日サロで失敗したかのような焼け方をしている、小汚い見知らぬオッサン。
服装はボロボロの汚れた着物で、手に持つ鈍色の“何か”を丁度自身のちょんまげと同じぐらいの高さまで上げていた。
あれは――もしかしなくとも“刀”だろうか。
え、もしかして我が家の近くで、今日から時代劇物の撮影でも始まったのだろうか?
って、するなら映画村でやってくれ!!
……って、待って待って。
私の後ろはついさっきまで叔母がいたのだ。後ろにこの人はどう考えてもおかしい。
え、それとも叔母が一瞬にして性転換を行える秘術を習得したとか……だろうか? ゲームのキャラメイク並みの素早さなんですが!?
混乱する私の目の前で、オッサンは何かに気づき、目線を上へと上げた。
釣られて私も目線を上げ『ああ』と納得してしまう。
どうやら壁という支えを失くしたらしいドア枠が、バランスを崩してオッサンの方へとゆっくり倒れ始めたらしいのだ。
そりゃあ、枠だけとは言っても鉄の塊。支えを失えば倒れるのは必然だろう。
呆然と見送る私に、顔を蒼白させていくオッサン。
二人の間でドア枠はゆっくりと倒れていき、オッサンの表情が更にムンクのようになっていく。その先を見越した私はドアノブから手を放し、オッサンに向かって拝んでいた。
私が目を瞑って程なくして、ガイン! という鉄が固いものにぶつかる音と、オッサンの声らしき潰れたカエルの声が聞こえた……ような気がした。気のせいだと思いたい。
……ちなみに、私がオッサンと目を合わせてこうなるまで、たぶん二秒かそこくらいである。
これが俗に言う『走馬灯』というやつなのだろう。もちろん、オッサンのだが。
ガッシャアアン!!!
盛大な音が背後に響き渡り、時間が元の速さを取り戻したようだった。
痛々しい破壊音は、私が手を放したドアの断末魔である。
光を取り込むために硝子が入っていただけあって、結構盛大に逝ったらしい。アーメン。
「……おい、アンタ」
「お――オレは悪くねえ!!」
……一瞬のうちにして起きた現象に我が頭が
もう目も開けたくもないこの状況の中、背後から掛けられた声に、思わず某親善大使のような事を言ってしまった。
いや、もしかしたら夢かも。なんて淡い期待を抱きながらそうっと目を開ければ、やはり眼前にはドア枠に一撃を貰ったオッサンが白目を剥いて倒れていた。
轢かれたカエルにも見えるそれに「うえっ」と喉が本音を漏らしてしまったが、慌てて唾を飲み込み、盛大に頭を下げた。
「い、慰謝料と治療費云々は叔母さん宛てでお願いします!!」
もちろん、返事はない。よし、肯定と取ろう!!
「ってか何ですかコレ!? 昨日私なんかしました!?
なんでこうも急いでる最悪なときに最悪なことって重なるんですか!
ああああ!! 絶対これ怒られるヤツじゃないですかぁあああ!!」
うわあ! と頭を抱えてしゃがみ込めば、少しだけ冷静になれたらしい。
もう一度身じろぎすらしないオッサンを見て、私は取りあえず十字を切って死兆星にお祈りしておいた。無事に成仏してクレメンス。
そんな私の背後でジャリ、と砕けたガラスが何かに踏まれたような音がした。
同時に差した影に振り返れば、最初に見えたのは黒いズボンと、動きにくそうな膝甲。
そのまま上へと視線をずらしていけば、組まれた腕が見え、その奥には黒い鎧――っぽいものが見えた。
その上に着ている青い羽織に隠れるように、黒い鞘に入った刀が腰に差されているのも見える。
更に上へと上がっていけば、険しい顔の男と目が合った。
その右目には黒い丸が――いや、これは出来物が出現したときに目に当てる、たしか眼帯であったか。
そしてその眼帯のすぐ隣で光る隻眼が、鋭く光っていた。
「……誰?」
先ほどのオッサンといい、今日は見知らぬ人とよく会う日である。
「HA! それは俺のセリフだな。アンタ、誰だ?」
人を小馬鹿にしたような声音で、隻眼の男が尋ねてきた。
――我が家のドアの上から。
そのことに少し苛立っていれば、男の隻眼が更に細められ、その眼光が増したように思えた。
「んで――どっから来た?」
「っ!?」
急に声音が低くなり、ぞわり、と背筋を何かが通り過ぎたような気もしたが、それは目の前の眼帯による視覚的恐怖だと無理矢理に納得させた。
く、黒は威圧感増させるとか聞いたような気がするし……!
恐怖を唾ごと飲み込み、極めて平静を装いながら背後を指さした。
「ど、どこってそこの家から……」
っていうか、お前の乗っているそれは一応まだ我が家の守護隊長なんだぞ。
さっさと下りないと、その腹立つ眼帯引きちぎるぞ!?
「ほう? 山に住んでるにしちゃあ、身なりがCOOLじゃねえか」
は? 山??
何言ってんだこの眼帯。そう言い返すためにも、と背後を振り返った私は先ほどのオッサンよろしく顔を青ざめさせた。
ああ、うん。
今ならオッサンのあの時の気持ちが分かる気がする。
悪い予感しかしない現実とか、どうしてこうなったんだっていう後悔とか――とにかく色々と巡ったんだろう。
今なら同情できる。でも葬儀代は叔母さんにお願いします!!
……目の前に突き付けられた光景は、こんな状況でなければ長閑で癒し要素満載だっただろう。
鬱蒼と生い茂る木々。その木々の生える急な斜面。
眼帯男を振り返れば、その背後に見えたのは純度MAXな清流。
私が今立っているところを含め、川原には白い石が敷き詰められている。
……なんかオッサンのような置物がいっぱい配置されてるけど。
どこかからは鳥の泣き声すら聞こえて……あ。今カッコウ鳴いた!
何がどうなってこうなったのかは分からないが、どうやら私は全く見知らぬ山奥の川原へと来てしまったらしい。
お供は犬猿雉ではなく、ひしゃげたドア枠と繊細な部分を砕かれたドアのようだ。
再び男の方を向いて、目元を押さえた私に男が小さく身じろいだらしい。
ジャリ、と再びガラスの摩れる音が聞こえた。
……ふ、ふふふふ。もう駄目だ。
何がどうなったのか、私の思考力では全くもって訳が分からない。
「AH? アンタ、まさか気づいて――」
「ああああああああ!!!
ここは誰で私はドコなんですかあああああああ!?!?」
「っ……!」
再度話しかけられたことが引き金となり、私はこの混乱のままに男――眼帯に掴みかかった。
その際に持っていた鞄が落ちたが、そんなことは気にならない。
眼帯も私の声量になのか、それとも涙と鼻水まで出てきてぐしゃぐしゃになり始めた私の顔になのか、若干引き気味で素直に服を掴ませてくれた。
「私が何したって言うんですかあああああああ!!!
ちゃんと言われた通りに『ゆっくり』開けましたよ!?
開けたらそこはシ●神様の森とかなんつー嫌がらせなんですか!?
ヤダ! ●イダラボッチ怖い! オウチカエルぅうううう!!!!」
身長の関係から男の胸倉には届かなかったが、なんか蒼い着物っぽい……羽織? みたいなところを掴んで力の限り押したり引いたりした。
しかし男の体幹がよほど鍛えられているのか、びくともしていない。
「て、テメエ! さっきから何ワケわかんねえことを――」
「黙れ小僧!! お前に今の私が救えるんですか!?」
どうやら川原に生えていた“置物”は、本物のオッサンたちであったらしい。
思わずオッサンの言葉を遮ってまで振り向けば、かなりの剣幕だったらしく、一番近かったオッサンを始め、皆「ひっ」と見事に引いていた。
「昨日は昨日で勝手に私の“告白話”を両親にバラされてるし!!
別に女子に好かれることは嬉しいんですよ?
でも、それを断るときの申し訳なさと、
『性別間違えてごめんなさい』っていう罪悪感が凄いんですよ!?
でも両親はきちんと私を娘として大切に育ててくれた訳で!
なのに……なのに!
その性別を他から疑われるなんて……叔母さんの所為でも罪悪感が半端ないし……!!
分かります!? この複雑な心境!!」
「Ah……いや、悪いが分かんねえな……?」
「ちくしょう同情するなら家に帰してぇええええ!!」
私は勝手に「わあああ!!」と喚き、眼帯の服から手を放してその場にうずくまった。
何か頭上から「同情してねえ」と突っ込みを貰ったような気がするが、気のせいだろう。
「……Okey. アンタが迷子なのはよく分かった。
For now, I'll postpone this child」
(とりあえず、コイツは後回しだな)
頭上で呆れた声がしたかと思えば両脇に手を入れられ、ひょい、と簡単に持ち上げられた。
ある意味『たかいたかい』のような状況に驚いた私は涙が引っ込んだのだが、私の顔を見上げた眼帯は失礼にも「うわ」と顔を顰めた。
「アンタはそこで顔でも洗ってな」
そう言われ、これまたひょいと川べりに降ろされる。
「んで、アンタらは――」
眼帯がオッサンたちに話しかけている間に、私は冷静になるためにも言われた通り、顔を洗い始めた。
泣き腫らしかけていたのだろう。手に取った澄んだ水は冷えていて、洗えばとても気持ち良かった。
洗い終わった私は何か拭くものを、とズボンのポケットを探り、洗濯に出し忘れたハンカチを見つけた。
何日前のハンカチかも分からないが……まあ、オッサンたちよりはマシだろう、と私は顔を拭き始めた。
いっそのこと、オッサンたちを川に漬けて洗ってやった方がいいのでは?
――そう考えたのだが、そうすれば下流に対する水質汚染で訴えられそうだ。
うん。やっぱりこの考えはなしだ!
そう顔を拭き終わった私が考えをかき消して顔を上げた時、目の前で盛大な水しぶきが舞い上がった。
しかも見間違いでなければ、直前にオッサンらしき物体が見えた気もする。
「い、いやいやいや……」
そんな私の小さな否定も虚しく、数秒後、私の動体視力の良さを肯定するように無残なオッサンが浮かび上がり、ぷかぷかと流れていくのが見えた。
……再び、私の頭が思考放棄したのは言うまでもない。
「Ha!! 」
ガッ!!!!
「ぐあっ!!!」
バッシャァアアアアン!
ガキョッ!!!!
「ぎゃああっ!!!」
ザッバァアアアンッ!!
飛び散る水滴、川の流れに消えていく影、どこか楽しそうな掛け声――
様々な音と共に、どこか遠い空の向こうでトンビの声が木霊した。