【 、お前にこの霊獣をやろう 】
【 ……………へっ? 】
――
あれから聞仲が決めたの待遇は『
もちろん
それにもし、この情報が何処からか漏れ
人間が大勢いるこの
それだけは絶対に避けねばならない。
そうならない為にも、この情報は自分と
一方、聞仲は異界に帰る手立てを探っている最中だと、には伝えていた。
帰りたいか? と以前 聞仲が聞いた時、少し間をおいた後「はい……」と彼女は初めてすがる様な瞳を向けた。
口に出さずともその瞳が、今までの態度が彼女の本心でなかった事を語っていた。
本来なら望んでもいない世界に引き込まれて、泣き喚いてもおかしくない状況なのに、これまで彼女は気丈にも明るく振舞っていたのだ。
聞仲はを不憫に思った。
「大丈夫だ……。時間は掛かるかもしれんが、私が元の世界に必ず戻してやろう」
普段、慰めの言葉など言った事の無かった聞仲だが、この時はなぜか彼女を安心させようと、今の言葉が自然に口を突いて出てきてしまった。
『実際、帰れるかどうか断定出来ない状況だと言うのに。私らしくない……』
聞仲はいつもと違う自分の行為に、思わず戸惑う。
の身の上話で、彼女が天涯孤独だと聞いたからだろうか?
聞仲も元は戦災孤児の身の上であった。
身一つで殷の将軍にまで伸し上がり。その後、金ゴウ島の道士となった。
孤独というものに対して苦痛を感じる聞仲ではなかったが、そんな彼でも幼き日に感じたその辛さは、今でも微かに覚えている……。
だからこそ、その時に望んだ『安心』を彼女に与えてやりたかったのかもしれない。
聞仲のその一言はどうやらを安心させたらしく、ホッとした表情の後、嬉しそうに笑った。
「ありがとう、聞仲くん!」
その笑顔が余りにも子供の様に屈託のないものだったので、聞仲の表情も自然と優しくなる。
住む世界は違っても、彼女も同じ人間なのだと彼は感じた。
胸の辺りが仄かに温かくなるのが分かる……。
『やはり、不思議な娘だ……』
聞仲は微笑した。
その後 は四聖達と一悶着あって、次の日から更に意欲的に言葉を覚えようとしていた。
言葉を覚える為には、通訳がどうしても必要になる。
黒麒麟とは聞仲が一緒なら話せるのだが、まだ二人っきりになるのはどうもダメらしい。
なので未だに、張奎の
他に霊獣がいないのが第一の理由だが実際、烏煙が気に入っていると言うのが本当の所らしい。
曰く。特に脇の下のモフモフした部分がたまらなく好きなのだと言う。
聞仲も何度か通りすがりに、暴れる烏煙の脇に顔を埋めている彼女を目撃している。
これに関しては、一度は共感を覚えた相手であったとはいえ、異界の人間と自分達との感覚の違いに、理解に苦しむ聞仲の姿がそこにあったそうな。
『異界の人間とは皆、この様に変わったものを好むのだろうか……』
なので、そんな調子で余りにも頻繁に借りたものだから、とうとう張奎がキレてしまい聞仲に抗議をした。
これはどうにかしなくては……と聞仲が考えた末、烏煙に霊獣を連れて来る様に頼んだという訳である。
【 え……っと。こ、これは?? 】
今まで勉強していた木簡を置き、聞仲の方を向く。
彼女の目の前に差し出された聞仲の手の上には、直径15cm程の白い毛玉が乗っていた。は不思議そうに目を瞬かせた。
先程、聞仲のセリフの後に続けて、この物体から同じ言葉が発せられていた様に聞こえたのだが、空耳だったのだろうか?
首を傾げるは、白い毛玉と聞仲の顔を交互に見詰めた。
と、その時――
「え……っと。こ、これは??」
ぴょーるるるッ♪
オカリナの様な音が鳴ったかと思った途端、いきなり毛玉がプルプルと動き出し、中から小さなクチバシと、円らな黒い瞳が現れたのだった。
【 ひゃっ! 】
「ひゃっ!」
いきなりの事だったので、は驚いて思わず後ろに身を引いた。
その物体は、パタパタと小さな羽根を羽ばたかせ、短い足で背伸びをした。
「フッ。すまない、驚かせた様だな。
これは『
【 フッ。すまない、驚かせた様だな。
これは『木霊』と呼ばれている霊獣ノ子ダ。……ニ連レテ……もらタ 】
【 えっ!霊獣!? 】
まだ子供だからだろうか?まるでヘリウムガスを吸った様な声色が頭に響き、長い台詞が覚えられないのか、途中から片言になり、その上所々飛んでしまっている。
『木霊』とは、そのまま字を読めば木の精霊の意味。
所謂、山で大きな声で叫ぶと同じセリフが返ってくるあの『
その名の如く、先程から人の言葉を繰り返し喋ろうとしている。
「人の言葉を真似る鳥の霊獣だが、成長するまでは飛ばずに跳ねて移動する様だ」
霊獣を掌から落とすと、それはボールの様に跳ね、の胸元でキャッチされた。
再びピョコリと顔が現れ、今度はオカリナの音色で鳴き出した。
【 うわぁ~♪この子の声、オカリナみたいに綺麗…… 】
その声の美しさに思わず聞き惚れる。
「えっと……! この子……名前は何テ言うんデスカ? 」
片言の言葉で問い掛けるに、聞仲は少し困った様に答えた。
「生まれて間もないと烏煙から聞いた。おそらくまだ名は無いのだろうな……。
良ければ主であるお前が付けるといい」
【 生まれて間もないと烏煙から聞いた。おそらくまだ名は無いのだろうな……。
……良けれバ主デアルお前……付ケル……イイ 】
聞仲の言葉の後に続いて、舌足らずな口調で小さな霊獣が真似る。
それが充分な通訳でなくとも、聞仲が何を言っているのか分かる分、助かっていた。
これで聞仲達とのコミュニケーションが、かなり楽になる。
今まで通訳の為にと渋る張奎から頻繁に烏煙を借りていたが、今度からはこの霊獣がその役目をしてくれるだろう。その上、自分の霊獣だから誰に遠慮する事もない。
烏煙に会う機会が少なくなるのはかなり残念な事だったが、この霊獣も烏煙に劣らず彼女好みのモフモフ形態であった。
はキラキラした目で、両手の中にスッポリ収まっている霊獣を上に掲げた。
高い高いをされて、霊獣は楽しそうにパタパタと羽ばたいている。
その仕草がたまらなく可愛くて、思わず頬擦りをする。
【 きゃ――っ! 凄くカワイイ――ッ♪ 】
「きゃ――っ! 凄くカワイイ――ッ♪」
子供の様にはしゃぐを見て、聞仲の表情も柔らかくなる。
必要だったからとは言え、自分の贈った物でここまで喜ばれたのは初めてで、その姿を見ているだけでこちらも嬉しくなってくる。
聞仲は思わずの頭を撫でた。
「……どうやらこの霊獣が気に入った様だな、」
【 ……どうやらこの霊獣が気に入った様だな、 】
「うん! ありがとう聞仲くん♪!!」
「なっ!?」
は嬉しさの余り聞仲に飛び付き、その頬に何度もキスをした。
目を丸くする聞仲。
人とのスキンシップに慣れていない……というか、全くそれ自体皆無だった聞仲にとってのこの行動は、彼を大いに驚かせた。
三百年も生きている聞仲には異性とは言え、たかが十八年しか生きていない娘など、幼子にしか見えていないはずであった。
だが朱氏に似ている容姿といい、出会った時の強烈過ぎるインパクトのお陰で、普段多少の事では動じない彼も、不覚にも意識してしまったらしい。
それもそのはず。この世界ではキスでの挨拶の習慣は無く、もっぱら夫婦の間でしかしない行為だったのだ。
そうとは知らないは外国暮らしが長かったせいか、感極まった時には日本でも過剰とも言えるこのスキンシップを、度々披露してしまう様だ。
今回も例外なく聞仲にしている。
勢いよくボディーアタックを喰らった聞仲は、バランスを崩し座り込んだ。
半ば呆然とし、戸惑う聞仲に構う事なく、キスの雨を降らす。
「ま、待て! やめ……」
「何をやっている、お前ッッ!!!」
【 …………へっ? 】
部屋に響き渡る怒声に気付き、声のする方を振り向けば、そこには張奎が立っていた。
足元に木簡を散らばせ、ワナワナと肩を震わせている。
その様子を見る限り、どうやら次の予定を聞仲に知らせに来たらしい。
張奎は顔を赤くしながら、急いでを聞仲から引き剥がした。
「は……
【 は……破廉恥だぞ! 聞仲様から、さっさと離れろ!! 】
【 え? ……ああっ!? 】
霊獣の通訳で彼が何を喚いてるのか分ったは、自分が聞仲に何をしていたのかやっと気が付いたのだった。
【 ご、ごめんなさい!嬉しかったもんだからつい……
で、でも聞仲くんを襲うとか 変な意味でキスした訳じゃないんです!
だから……その……! 】
自分の胸倉を掴んで睨んでいる張奎に、は懸命に弁解した。
だが案の定言葉が通じず、彼の頭の上にはいくつものハテナマークが浮かんでいる。
は素早く手に乗っている霊獣を目の前に差し出し、この誤解を解く為、唯一の通訳者に望みを託したのだった。
しかし ―――
「ご、ごめんなさい!嬉しかったもんだからつい……。
で、でも聞仲くんを襲う…とカ、変な意味でキスした訳……デス!
ダカラ…ノッ…!」
【 ええええっ!? 】
「お、お前やっぱり……この破廉恥娘がぁッ!!!」
【 いやぁ――ッ! それ違うッ! 誤解だってば――!! 】
セリフが長かった為訳しきれず、肝心な部分を飛ばされた結果、余計に話がややこしくなってしまった。
胸倉を掴んで前後に揺さぶられながらも弁解するに、張奎が喚き立てる。
そしてその上、霊獣が二人の言葉を真似るものだから、その場はかなり賑やかな空間になってしまっていた。
言い争いの元であった聞仲は蚊帳の外に追い出されたまま、しばし呆然としていた。
最初、霊獣の訳した言葉を聞いて思わず少し退いてしまったのだが、すぐに幼い霊獣が全て訳せなかったのを思い出した。
その後に訳されたの言葉からも、それは誤解だと分かる。
これも異界の者との感覚の違いか……と、髪を掻上げ聞仲は溜息を吐いた。
「……もういい、張奎」
「で……ですが聞仲様!
このままではこの破廉恥娘に、聞仲様が汚されます!」
「………………」
真剣に訴える張奎の言葉に聞仲の思考は停止した。
その言葉をなぜ自分に使うのか? と……。
それは普通、穢れの知らない乙女に当てはまるものであって、男である自分に向けるものではないのだ。
張奎が自分をどの様に見ているのかは分からなかったが、今のセリフから理解に苦しむ予感がしたので、聞仲はこれ以上詮索する事をやめた。
そして少し不自然な咳払いの後、何事もなかった様に聞仲は話を進めた。
「ゴホン……それは良いとして、張奎。
何か私に用があって来たのではなかったのか?」
「用? ……ああっ、しまった! こんな事している場合じゃ無かった!
次の会議に必要な書簡を渡そうと思って……それと
「飛虎が?
「はい。理由まではお聞きしていませんでしたが……、
もうじきこちらへ来られると思います。
では聞仲様、急ぎますので僕は先に失礼します!」
張奎はそう言って拾った木簡を聞仲に手渡すと、慌てて執務室へと戻って行った。
何はともあれ騒ぎが一旦収まり、聞仲はホッと一息吐いた。
まだには言っていなかったが、今日の夕方に黄飛虎からの申し出で、黄家の屋敷での晩餐に招かれていた。
執務が終わり次第こちらから出向くはずだったのだが、わざわざ黄飛虎からの来訪に、聞仲は首を捻った。
「聞仲くん。夕方どこか行く……の?」
「ん?」
ふと視線を下に向けると、がマントの裾を引っ張り、首を傾げながら自分を見上げていた。
いつの間にか話の内容が伝わっていたのは、霊獣が通訳したらしい。
「そうか……お前にはまだ伝えていなかったな。
今夜は飛虎の屋敷に招かれていたのだ。
、お前も一緒にと言う事だったのだが……何か変更でもあるのかもしれないな」
「飛虎……??」
「つまり お前の言う、その……『おじ様♪』の事だ」
「あ……。 おじ様♪分っタ!」
未だに黄飛虎の名を『おじ様♪』だと思い込んでいるに、聞仲は苦笑した。
言葉が通じないのを良い事に飛虎が面白がって教えたのだが、これからはこの通訳の霊獣がいるので勝手な事は出来ないだろう。この機会に訂正するのも良いかもしれない。
飛虎のふて腐れる顔が容易に頭に浮かび、聞仲は思わず肩を揺らしてクツクツと笑った。
「聞仲くん、笑う……ドウした……の? ナニか楽しい?」
下から不思議そうに首を傾げ、見上げている。
聞仲はに言われて初めて、自分が笑っている事に気が付いた。
「い、いや……何でもない」
隠す様に口元に手を当てながら、聞仲は慌ててから視線を逸らした。
この私が楽しそうに笑っていた……?
喜びの感情を余り外に出さない聞仲にとって、今の言葉に少し戸惑いを感じた。
元々感情を表すのが苦手という事もあるのだが、太師の立場上、油断するとすぐ足元を掬われるこの宮中において、人との付き合いに一線を引いていた彼は、自分の気持ちを他人に知られる事に自然と警戒心を抱く様になっていた。
今でこそ、その実力と絶大な仙道の力を知らぬ者はおらず、彼を貶めようとする者は皆無なのだが、聞仲が太師となった当初には多少の権力争いはあったらしい。
その為、自分の感情を隠し、相手に畏怖の念を抱かせる目的で、聞仲は敢えて顔の半分を覆う仮面を付けていたのだ。
だがその仮面も目の前の娘の騒動で失くして以来、今は付けていない。
長年付けていた為、それはすでに体の一部と化していた。
その仮面が無いので何とも落ち着かない。
そんな困惑ぎみの聞仲をよそに、そうとは知らないが嬉しそうに声を掛けた。
「聞仲くんが笑う……素敵♪ 私、嬉しいデス!」
「!」
に笑顔を向けられた途端、不覚にも聞仲の胸はドキンと高く鳴った。
この娘はなぜ、こんなにも眩しい笑顔を見せるのだろう……と。
春の陽射しの様な暖かな笑顔。
それは霊獣を与えた時よりも、一層輝いているように見える。
聞仲は初めて見る様な驚きの目で、を見詰めた。
まるでその場所だけ時間が止まったかの様に……。
「なぜ……。私が笑うと嬉しいのだ?」
自分の意思に反して、ふいに口をついて出てきたこの言葉に、聞仲は驚いた。
いつもなら他の者が自分をどう思っていようとも、気にはならないはずなのになぜなのか?
そんな自分に戸惑いつつ、静かにの答えを待った。
霊獣の通訳の後、はどう答えようかと少し考えた末、ポンと手を打つと自分の荷物の中にあった、あのスケッチブックを開き、聞仲に見せた。
そしてはにかむ様に照れ笑いを浮かべる。
【 えっと……。私、この絵を見てずっと聞仲くんに憧れてました 】
「えっと……。私、この絵を見てズット聞仲くんに憧れてまシタ」
【 笑ったらきっと素敵だろうな……って。だから嬉しいんです! 】
「笑ったらきっと素敵ダロウな……って。だから嬉しいんデス!」
「!」
幼い霊獣が訳しやすい様に、短く言葉を切る。
その訳された言葉を聞いた聞仲は再び驚き、戸惑いを隠す様に視線を逸らしたまま「そうか…」と短く答えた。
確かに慕われて悪い気はしない。
だが今まで聞仲を目の前に、ここまでハッキリと言った者などいなかった。
密かに想いを寄せていた朱氏でさえ、ここまで自分を気に掛けてはいなかっただろう。
の真っ直ぐな瞳を受け止められず、聞仲ははぐらかす様に再び問い掛けた。
「い……異界の者は皆、お前の様にハッキリと想いを口にするものなのか?」
【 い……異界の者は皆、オマエの様にハッキリと想いを口にスルモノナノカ? 】
【 えっ!? えっと、みんなって訳じゃない……かな?
私はいつも思った事をすぐに伝える様にしてるんです。
後で後悔するのは嫌だから……。う~ん、やっぱり変……なのかな? これって?? 】
そう言っては、手にしていたスケッチブックを寂しそうに抱き締める。
それを見逃さなかった聞仲は、訳された内容と照らし合わせて、彼女が亡くなった弟の事を指している事に気付いた。
きっと彼女は弟に想いの全てを伝えられず、後悔し、そして涙したのだろう……。
その様子を思い浮かべ、そのの姿と朱氏に想いを告げれなかった自分自身の姿を重ねてしまい、聞仲は胸が苦しくなった。
「……」
無意識にの頭を撫でる聞仲。
その聞仲の大きな掌が髪に触れた途端、の表情は驚きと共に真っ赤に染まった。
「ぶ……聞仲くん……?」
切なく揺れるアイスブルーの瞳。
その瞳から視線を外す事が出来ず、戸惑う。
思わず聞仲の行動に驚いただったが、すぐにそれが自分の気持ちを察してくれた表れなのだと気が付いた。
普段は感情を表に出す事はなく、出したら出したで、怒った時など周囲の者達が震え上がる程恐ろしいと言うのに……。
初めて見る彼の慈しむ様な眼差しに、その優しさを改めて実感する。
『聞仲くんって、きっと人の痛みを知っている人なんだ……』
ここ、殷の太師府に来てからまだ一週間しか経っていない。
だがその中では聞仲を見た目通り畏怖する者達が目に付いたが、先程の張奎や四聖達の様に慕う者もいた。彼等には聞仲の本当の優しさが分かっているのだろう。
そう考えた途端、彼が目の前にいると言うだけで胸が高鳴り、切なくなった。
絵の中だけの存在から、同じ空間を生きている存在に変わった時、ただの憧れだった想いはいつしか形を変え、淡い恋心に変化する。
それは普通の人間ならばごく自然な流れであり、も又それと同じく、聞仲に惹かれているのを自覚せずにはいられなかった。
『もし……もし、元に戻れなかったとしても、きっと悲しくない。
だって、聞仲くんの側にいられるのなら、それだけで私は……』
聞仲への溢れる想いを感じながら、は目を閉じた。
彼の思いやりと共に、自分の頭を撫でる大きな掌の温かさが伝わり、それはの胸の奥までしみ込んでいった。
――どこか遠くから聞仲を呼ぶ声が耳に届く。
その瞬間、二人は一気に現実に引き戻され、呪縛から解放された様に周囲の空間に時間が流れ出した。
聞仲が声のする方を振り返ると、回廊の向こうから黄飛虎がやって来るのが見えた。
「ん……? 飛虎か」
聞仲は今まで撫でていた手を、人目を憚る様に慌てて引いた。
なぜならこんな場面を黄飛虎に見られでもしたら、冷やかしの対象になってしまうのが、目に見えていたからだ。
の方も、あ!と思い出した様に振り返った。
今の今まで黄飛虎が尋ねて来ていた事を、すっかり忘れていた様だ。
正直、もう少しだけこのままでいたかったのだが、自分の我が侭で客人を待たせる事は出来ないので、諦めるしかない。
名残惜しそうに聞仲の横顔を見詰め、短い溜息を吐いた。
「よぉ、聞仲! な~んだ、こんな所に居たのかよ探したぜ?」
「こんにちわ、おじ様♪」
「よぉ! 久し振りだな♪」
少し屈んで、嬉しそうにの頭を撫でる黄飛虎。
わしわしと上機嫌で撫でる様子を見て聞仲は、年甲斐もなく『おじ様♪』と呼ばれて顔を緩ませている飛虎に呆れ返り、肩を竦めた。
「飛虎……。どうした?予定ではお前の屋敷に行くのは夕方のはずだが……」
「んなこたぁ分ってるよ。いや何、まだ間があると思ってな。
先にそっちのお嬢ちゃんを迎えに来たんだよ。それに……」
黄飛虎の後ろからひょっこり現れたのは、黒髪で鼻の頭に傷がある少年だった。
少年は少し警戒しながらも、興味深そうにを見詰めていた。
「その子供は確か……お前の息子の一人……
「こいつがどうしても異国の仙女ってヤツに、早く会いたいって言うモンだから連れて来たんだよ。
ホラ、天化。照れてないでさっさとに挨拶しねェか!」
バン! と黄飛虎に背を叩かれ前のめりになる天化。
本人は軽く叩いたつもりだが、天然道士の馬鹿力が物を言い、勢い良く前へ飛び出した。
すると、倒れそうになる先に丁度 がいて、上手い具合に天化をキャッチする形で止まったのだった。
「痛ッてーな! 何もそんなに叩く事ないさ!」
「大丈夫?」
「え……?」
当の本人に抱き止められていた事を知らなかったのか、天化が驚いて上を見上げるとの顔が間近にあった。
――黄天化 13歳。黄家期待の次男坊。
天化はここ、
異国の仙女だと父親から聞いて、どんな絶世の美女かと少年ながら期待を膨らませていたが、目の当たりにした相手は、拍子抜けの至って普通の女だったからだ。
それに自分より5つも年上だと聞いていたが、実際 同じ歳ぐらいにしか見えない。
ここ朝歌では余り見かけない、男の様な短い髪にも驚いていたのだが……。
『まぁ……
男勝りな叔母を思い出し、天化は苦笑する。
それにしても…と天化は眉をひそめた。
女が自分の父親に向かって、『おじ様♪』と呼んでいるのだけは腑に落ちない。
異国の人間だから余り言葉がしゃべれないのは当然なのだが……。
目の前の聞太師が、そう教えたのだろうか? ……いやいや、それは絶対ありえない。
ならば、一体誰が……?
『おじ様♪』と呼ばれた父親の顔が緩んでいる。
それを見て、天化は以前 街中で若い娘達に囲まれ嬉しそうにしている父の姿を思い出し、そこでピンときた。
『間違いねェさ、このクソおやじが教えたさ!』
ニヤけている父親を見て、
武成王ともあろう男が、己の願望をこんな所で押し付けていたとは……。
天化は脱力しつつ、家に帰ったらこの事を母親に言い付けてやろうと考えていた。
そんな事を企んでいた最中、いきなりそのクソおやじからの一発を喰らう天化。
背中を叩かれ、不意の一撃に思わず前のめりになる。
抗議の声を上げてはみたものの、自分が倒れ込んだ所がやけに柔らかい方が気になり、それと同時に、今まで嗅いだ事のない良い香りがするのに気付いた。
柔らかいもの……それは異国の仙女であった。
最初、天化が見た感じでは女と言うよりも、少女の体型だと思っていた。
だが胸で受け止められて初めて分かった事なのだが、意外とそれは大きかったのだ。
確かに自分の母親よりは劣るが、異性を感じさせるには充分な柔らかさをしていた。
その上、髪から匂う不思議な甘い香りに思わず胸が高鳴った。
母親以外の異性に触れる機会は、叔母を含めていくらでもあったのだが、身内や女官と言う事もあり、別段気にする事はなかった。
『な……何さ。何でオレっち、こんなにドキドキしてるさ!?』
今まで感じた事の無い感覚に、焦る天化。
これはもちろん一般に言う『恋』という感覚では無く、思春期特有のものであった。
でなくとも、時期が来て相手が異性であれば誰にでも感じるのである。
これまで異性を意識した事が無いだけに、天化の焦りは混乱を極めた。
混乱して固まっている少年は、顔を赤くしながらの顔を見詰めている。
頭一つ分低い位置から、自分を見詰める黒い瞳と目が合った。
面影が少し『おじ様♪』に似ている。鴉の濡れ羽色の黒髪はきっと母親譲りなのだろう。
鼻の頭の傷は痛々しかったが、活発そうなその表情に幼い少年らしさを感じ、は思わず母性本能に目覚めてしまった。
『何? 何この子? すっごく カワイイ♪』
腕の中の少年が脳内で葛藤しているとも知らず、は慈愛たっぷりの笑みを浮かべると、天化の頬に手を添えた。そして……
「私、。宜しくネ♪」
ちゅっ♪ と頬にキスをされ、天化の動きが一瞬止まる。
次の瞬間、彼の顔は火が付いた様に見事に真っ赤になった。
としては、ここの世界に来て初めて見た子供だったので、嬉しくてついやってしまった只の挨拶だったのだが……。
「△×#$○!!!!!」
声にならない叫び声を上げた後、の腕を振り解く。
そして余程驚いたのか、慌てふためきながら一目散にその場から逃げ出したのだった。
少年のその激しい反応に驚いたは呆気にとられていた。
だが、驚いていたのは聞仲と黄飛虎も同じであった。
挨拶でキスをする習慣のない ここ殷の国では、夫婦でも表立ってそれを見せる事はない。
なのでのこの突飛な行動は当然、二人にも驚きの目で見られてしまっていた。
「え? え? ……どうしちゃったの、あの子??」
その場でオロオロとする。
聞仲はこめかみを押さえながら、眉間に深いシワを寄せている。
深い溜息を吐いた後、に向き直ると、少し怒った様に言い出した。
「……お前は一体何を考えているのだ?
先程もそうだったが、人前であの様に……」
「ぶッ……! ぶフッ! ぶあっはっはっはっは!!! 」
聞仲がに注意しようとした所、いきなり黄飛虎が爆笑し出した。
何事かと二人が振り向いた先には、腹を抱えて大笑いする飛虎の姿があった。
「あ……あの天化の顔ッ……!
笑いのツボに入ったのか、涙を流しながらヒィヒィ言って、膝を叩いている。
男子だとは言え、自分の子供があんな目に遭っていたなら、親ならば誰でも相手を咎めるのは当たり前のはず。
だが、目の前の男は咎めるどころか、息子の未熟さを笑い飛ばしているのである。
「またお前は……!」と言いかけて、聞仲は言葉を止めた。
ふと何年か前に、飛虎の屋敷に招かれた時の事を思い出したからだ。
その時は客である自分がいるにも関わらず、人目を憚りもせず、仲睦まじさを見せ付けられていたのを思い出す。(奥方の方はかなり恥ずかしがっていた様だが……)
普通ではない、ある意味大らか過ぎる飛虎に、節度や慎みを求める事など到底無理というもの。そんな飛虎ならのこの行為も賛同するかもしれない。
いや、おそらく喜んでするだろう。
『それでは困るのだ!』
誰かれ構わず抱き付き、
彼女がどう言うつもりで、無節操にもこんな行動をとるのか理解出来なかった。
これが異界の者の習慣なのかもしれないが……。
だとしても一つだけ言える事は、その身を預かる保護者として、自分がそれを正してやらなければいけないのだという事。
聞仲が使命感に目覚めている間、飛虎の方は少し笑いが収まってきたのか、肩で息を吐きながらに問い掛けた。
「あ~面白いモン見せてもらったぜ! ありがとさんよ♪
ところで?
お前さんの国じゃ、いつもあんな事してる……っと、おっといけねェ黒麒麟がいないんじゃ、通じねェんだったか?」
「?」
自分に話しかけ、途中で止めた黄飛虎を見て、は彼が言葉が通じず困っているのだと理解した。
なのですかさず聞仲から貰った霊獣を、ここぞとばかりに目の前に差し出した。
【 あ~面白いモン見せてもらったぜ! ありがとさんよ♪
トコロで?
お前さんの国じゃ、いつもアンナ事してる……っと、……イケねェ!
黒麒リンが……じゃ、……ねェ……ナ?? 】
「!? なッ、何だ、こいつは??」
いきなり目の前に出された毛玉を見て、目を丸くする黄飛虎。
良く見ると、それには小さな口ばしと円らな目が付いてあった。
パタパタと羽ばたいている姿を見て、何かの鳥だと分かる。
【 安心して下さい、おじ様♪ この子は通訳出来るんですよ? 】
「安心して下さい、おじ様♪ この子は通訳出来ルんデスヨ?」
「ぅおっ! スゲぇ!! 通訳出来るって事はこいつも霊獣の端くれか?」
興味深そうにうりうりと指で突っつく黄飛虎。
霊獣は驚いてピイ! と一鳴きすると、慌てて羽毛の中に顔を隠した。
「ははは! 面白ェ♪ こいつがいりゃあ、今度からちゃんと話が出来るよな。
よぉ聞仲、お前さんも粋な計らいするじゃねェか!
何だかんだ言ってもの事、気に掛けてやってんだなぁ。いやぁ、感心 感心♪」
「当たり前だ。成り行きはどうであれ、は私の食客だ。
しばらく言葉が通じぬ異国の地にいるのなら、これくらいの配慮は当然だろう」
「ふぅ~ん、食客ねぇ……」
顎の無精ひげを軽く撫でながら、黄飛虎は聞仲とを交互に見て、目を細めた。
聞仲の口から『食客』と言う言葉が出た事に、に引っかかりを感じたからである。
ここ
それが官職に就く者の、権力の大きさを示す基準の一つになっていたのだ。
武成王である黄飛虎も武芸に秀でた幾人もの食客や、義兄弟を屋敷内に住まわせていた。
だが聞仲だけは、その宮中にある風習には従っていなかった。
確かに聞仲を慕って、人に限らず仙道達も朝歌を訪れる者が数多くいた。
だが彼はその者達を食客として手元には置かず、役目(仕事)を与えたり、他の者に託したりと、一人として無駄に遊ばせる事はしなかった。
聞仲曰く、
「『食客』等という者は不要な存在だ。私から見れば全く無駄にしか見えん」
それは長い年月を太師として生きた中で、殷を豊かにする為に出した答えなのだろう……。
今の殷の王・
なのでそんな聞仲が訳もなく、自分が嫌う無駄な『食客』を手元に置くハズがない。
彼女が迷子の異国の仙女だからだろうか?
がもう少し大人びた女ならば、色恋関係と結び付けれる。だが、見た目があれ程幼い容姿なので、いくら恋愛経験のない聞仲でもその気にはならないだろう。
手を出したら出したで、犯罪者の
『何かワケありみたいだが……。
ま、いいか!分かんねェモンは仕方ねェしな!』
黄飛虎の野生の第六感は、微かに怪しいと告げていた。
だが、今まで直感と体力だけで生き抜いて来ただけに、深く考える事が苦手である。
そして相手が聞仲ならば、きっと時期を見て話してくれるだろうと考え、これ以上深く追求しない事に決めたのだった。
一方 聞仲の方は、黄飛虎に人を見透かす様にジロジロと見られ、不快を感じていた。
眉間にシワを寄せ、不機嫌に尋ねる。
「……何だ飛虎? 何か言いたそうだな」
「え? おっと、悪ィ悪ィ!
何でもねェ、ちょっと物思いに耽っていただけよ。ははは!
……まぁ、その通訳の霊獣がいるんなら一人になっても大丈夫って事だよな?」
「まだ少し安心出来ないが……」
「だったら聞仲、お前さんの代わりに今日は俺がの面倒見といてやるよ。
俺ンとこなら危なくねェし、安心だぜ? よし! んじゃ決まりだな♪」
「なッ!? 何を勝手に決めている、飛虎! は……」
そんな時、パタパタと回廊を走る足音が近づいてきた。
それと同時に張奎の呼ぶ声がする。
「聞仲様ぁ―――ッ! 会議が始まります、お急ぎ下さ――い!!」
「何!? もうそんな時間か!」
決して会議の事を忘れていた訳ではなかったのだが、張奎がここまで慌てる程、時間が過ぎてしまっていた事に気付き、聞仲は焦った。
なぜなら今日は紂王陛下が出席する大事な会議だったからだ。
普通の会議なら多少の融通を聞かせるのだが、当然ながら君主を待たせる事など出来るはずもない。
だが、このままではは連れ出され、通訳がいるのを良い事に良からぬ事を教えるかもしれない。この世界の事を何も知らないは、無垢な幼子と同じなのだ。
見るもの聞くもの全て吸収してしまうだろう…。
『それではが飛虎色に染まってしまうではないか!』
聞仲は不信感を募らせながらも黄飛虎の顔を見た。
目が合った瞬間、案の定 彼が一瞬ニヤリと意味有り気に笑うのを聞仲は見逃さなかった。
不安が確信に変わった。
『やはり、何か企んでいるッッ!!!』
「ダメだ……ダメだ! 私は許さんぞ!!」
「な、何もそんなに目くじら立てる事ぁねェだろうが? 誰も取って食やぁしねェって!」
「貴様……! 私の目はごまかせんぞ、一体何を企んでいるッ!!」
聞仲の第三の目がいつの間にか開いている。それを見て黄飛虎は少し冷や汗を掻いた。
『うわぁッ、しまった! また怒らしちまったか!?』
この太師府が壊滅状態に陥ったのも元はと言えば、聞仲をからかい過ぎたからだ。
それは
だがあれ以来、朝歌にいる時は極力装備を控えているらしく、今は手元にない。
聞仲が禁鞭を持っていないのを確認すると、黄飛虎はホッと肩の力を抜いた。
それにしても……、と黄飛虎は短い溜息を吐いた。
日頃動じない聞仲の珍しい反応が面白くて、ついからかってしまう自分も悪いのだが、それにしても少し激し過ぎるだろ?と黄飛虎は心の中で突っ込んだ。
異性に対する独占欲……と言うよりも、まるで子供を必要以上に心配する親という方が今の聞仲の態度にはピッタリくるのだ。
『そうか……!
どっちかって言うとそっちの方が合ってるよな。過保護ってヤツだぜ!』
そうと分かれば尚更、過保護な親からを一人立ちさせる為にも、自分が協力せねばなるまい。なぜなら朝歌広しと言えども、聞仲にものが言えるのは紂王陛下か自分しかいないのだ。
将来、逸材と成り得るかもしれない若者を、このまま腐らせる訳にはいかない!
黄飛虎も又、聞仲とは違った使命感に目覚めていた。
「ほら ほら! 後はこの俺に任せて、さっさと行っちまいな」
「だが……!」
「太師たる者、そんな事でどうするよ! 今日の会議は紂王陛下だって来るんだろ?」
「そうです、聞仲様! 陛下もすでにお待ちなんですよ!?」
「くッ……!!!」
紂王陛下の名を持ち出されては、さすがの聞仲も何も言えなかった。
苦虫を噛み潰した顔で黄飛虎に向き直ると、に絶対変な事を教えるなと何度もクギを刺す。そして急かす張奎に背を押されるまま、その場を後にしたのだった。
この後、黄飛虎はを黄家に連れ出すのに成功したのだが、結果的に聞仲の命を受けた黒麒麟も同伴という形になってしまった。
その事が気になって会議に集中出来ない聞仲が、これならば! ……と、張奎を通して手を回したのだ。さすが殷の太師! 伊達に長年官職に就いてない。
大男と少女。それに一際大きな黒い霊獣。
三人(?)が朝歌の街なかを歩いている姿は、嫌でも人々の注目を浴びていた。
黄家に行く前に、に朝歌を色々見せてやろうと予定していたのだが、黒麒麟に皆の視線が集中する中では、自由行動など到底無理だと判断した。
聞仲はきっと、こうなる事を予測して、黒麒麟を同伴させたのであろう。
黄飛虎は聞仲の戦術に舌打ちをし、しぶしぶ諦めたのだった。
「チッ!やるじゃねェか聞仲……。転んでもタダじゃ起きないってか?」
「なぜ霊獣の私がこんな事を……」