その女性の名はレックナート。
トランの魔術師の島に住む魔法使いである。
彼女は目の前に浮かぶ、淡く光る水晶球に両手をかざしながら、只黙ってそれを見詰めていた。
そんな時彼女が何かに気付き、ふと顔を上げた後、ゆっくりと振り返った。
「…………帰って来ましたか、ルック」
暗闇に向かって囁く様に呼びかける……と、そこには動く影があった。
すると、今まで誰もいなかったはずの場所から、一人の少年が姿を現した。
「ただ今戻りました、レックナート様…………」
その容姿は一見、少女の様な顔立ちだが、声を聞く限りではやはり少年のそれであった。
そして、ルックと呼ばれた少年は、ゆっくりとレックナートの傍らへ歩み寄ると、彼女が見詰めている水晶球を覗き込む。
そこには青味がかった銀髪の少女に駆け寄る青い服の男と、逞しい体の大きな男が映っていた。
彼らは先程ルックが魔法で助けた者達で、以前、彼が解放戦争に参加した時の仲間であった。
「…………彼らは何とかと無事、合流出来た様ですね」
そう言うと、レックナートは少しホッとした表情を浮かべている。
「ご苦労様でした、ルック。 疲れたでしょう、もうお休みなさい……」
「一つ…………質問しても、よろしいですか? レックナート様」
レックナートの言葉を遮る様に、ルックは問い掛けた。
「……何でしょう?」
「………………いえ。
がこの世界に召喚された時、なぜ、すぐにでも迎えに行かなかったのですか?
あの時行っていれば、彼女はあんな形で命を落とす事は無かったでしょう……。
あれでは彼女に選択の余地など無かったのではないですか?」
「……………………」
「あの状態で宿してしまっては、彼女はもう……僕と同じ様に……」
「ルック」
今度はレックナートがルックの言葉を遮った。
そして少しの間沈黙した後、彼女が水晶球に手をかざすと、それは青白く光り出しその中に深く蒼い水面(みなも)を映し出した。
「これを見て下さい……」
レックナートが指し示した所に、一粒の小さな銀の雫が水面に落ちる……。
今まで鏡の様に張り詰めていた水面に、一つの波が起きた。
それは最初 小さな波であったが、次第に大きく広がり、その水面全体を揺らしていく。
「…………この水が私達の世界だとすると、小さな雫は『希望の紋章』
……そう、なのです。
本来何も無ければ世界は、ただ定められた方向に向かって進んでゆくはずでした。
それは真の紋章を宿した貴方にも見えていましたね?」
「…………………」
「ですが、この世界に存在しない異質なものの出現により、この水面の様な事が起きています。
最初起きた小さな歪みは時を経るにつれ、その者に関わる全ての者達に大きな変化をもたらすでしょう……。
本来辿るべき道筋から外れ、それは歴史をも動かす結果になるかもしれません。
彼女がこの世界の“
「“ 理 ”に囚われない……存在……」
「………………今まで黙っていましたが、あのトランに現れた『』は未来のです」
「未来の……!?
では……彼女は精霊の時の記憶を無くしたのではなく、これから先、精霊となって過去に戻ってしまうのですか!?
でも、どうしてそんな…………」
「理由は…………今はまだ言えません」
「な……!?」
「『希望の紋章』の中に模られている“ 銀の車輪 ”……。あれは時を紡ぐもの。
時を越え、繰り返し常に上を目指して少しでも良き方向へと導いて行く……。
それがあの紋章の性質なのです。
もしあの時、彼女が紋章を宿す事無く死んでしまったとしたなら、当然過去に『』は現れる事は無く、今のトランも無かったでしょう。
そして、……“ 今 ”のルック、貴方も…………」
「 !!! 」
「…………確かに“ 今 ”の為に私はあの時、彼女に選択の余地を与えなかったのは認めます。
ですが、きっと彼女なら例え呪われた道だと知っても、この道を選んだ事でしょう……。
私の知る“ ”はそんな人でした」
「レックナート様…………。
なら……なおさら彼女をここに連れて来るべきです!
ここなら安全だし人前に出なければ以前の様な悲劇に遭う事も無いでしょう。
そうだ! そうすれば彼女は…………」
いつになく感情的なルックを見て、レックナートは何かに気付き、少し表情を曇らせた。
そして、しばらく沈黙した後、ゆっくりと語りだす。
「………………それは、なりません」
自分の意見を否定され、納得のいかないルックはさらに声を荒げた。
「なぜです!? それが一番最善の方法ではありませんか!」
「ルック……、貴方は先の戦いで自分が何者なのか知ったはずです。
今、貴方が彼女に
………………彼女はもう『ルルド』ではないのですから……」
「 !!!!!!! 」
その言葉に我に返ったルックは、自分のとってしまった態度に気付き呆然とした。
そして震える手で口元を覆い戸惑いの表情を見せている。
レックナートは自分の形にならない気持ちを見抜いていたのだと……。
「あ……僕は…………」
「時が来ればいずれ分かるでしょう……、全ては星の導くままに……。
…………もう休みなさい、ルック」
その後、レックナートの口から何も語られる事は無く、ルックもそれ以上何も聞く気にはなれなかった。
自室に戻った彼は、月明かりだけが照らす薄暗い部屋の中、明かりも点けずに一人、考えていた。
そのままベットに倒れ込んだ状態で、冷たい石の天井を見詰めている……。
『今貴方が彼女に
「…………分かってるさ、これが“ あいつ ”の記憶からの感情だって事ぐらい」
トラン解放戦争の
その時出会ったや。そして他の仲間と呼ばれる者達と接するうち、今まで人や自分に対して感心など持った事が無かったルックに変化が起こったのだ。
――自分は何の為に、生きているのか?……と。
その小さな疑問は、人の温かさに触れるにつれ、どんどん大きく膨らんできた。
そして“ トランの天使 ”精霊だったに教えられたのだ、『人は自分の魂を磨く為に、この世で生きている』のだと…………。
「“ 人は自分の魂を強く、深くする為に何度もこの世に生まれて来る ”
……、あの時君はそう言ってくれたよね?だったら真の紋章を宿した僕はどうなるんだい?
ただの紋章の“
あの時……最後の戦いの最中、崩れ出す城内に響いたの歌声。
その歌は初めて聞く歌のはずなのに、それは直接ルックの魂を揺さぶり、ひどく懐かしい感情とそしてそれと同時に、500年前の記憶が蘇ったのだ。
―――― ソウ……ボクハ コノ歌ヲ知ッテイル……ルルド……愛シイ君ノ歌…………
―――― 彼女ハ 僕ノ愛シイ恋人ダッタ……ナノニ…………
フラッシュバックの様に断片的に思い出される光景。その中には全て、青い銀の髪の女性が自分に微笑んでくれている……。
込み上げる愛しさ……そして、悔やみ切れぬ後悔……。その全部の想いがルックの全身を駆け巡った。
―――― チガウ……違ウ!違う!! これは僕じゃない!!!
肉体と魂がジレンマを起こす中、最後に見た衝撃的な記憶。
…………それは真の紋章を核に“ 自分達 ”を創り出す、もう一人の“ 自分 ”の姿であった。
「…………あの時、初めて知ったよ。僕が“ あいつ ”の複製だったって事を。
そしてに対しての感情がどこから来たのかも。
僕はに宿してあった紋章に惹かれていたんだ、……ルルドの宿していた紋章に…………」
無意識に胸に手を当てるルック。その心臓の部分には、自分の肉体の核となる『真の風の紋章』が宿されている。
そして紋章の印は他の紋章と同様、右手に現れていた………。
「………………いや、は僕と同じになってしまったのか……。
何も知らない彼女が、この真実を知ったらどうなるだろう?
真の紋章の化身となった彼女はもうこの世界でしか生きられないと言う事を……」
目を閉じたルックは深い溜息を吐いた。
そして、の名を呟いた後、ふいにあの時の事を思い出し、切なそうな表情で唇に触れた。
柔らかい少女の唇の感触がまだ残っている…………。
それは少女が精霊などではなく、れっきとした人として存在しているのだという証拠(あかし)なのだ。
「……そうさ、僕は“ あいつ ”じゃない。
……に囚われる必要等ないはずなのに……
分かってるのに……なぜこんなにも心が揺れるんだろう?
僕はどうすればいいんだ? 教えてよ……ルルド…………」
ルックの切なく呟いた声は暗闇にかき消され、窓の外には月が青白く辺りを照らしていたのだった…………。